徴兵令の変遷

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国民皆兵の徴兵制は、近代国家建設の重要な一礎石であった。しかし、明治六年一月十日に発布された徴兵令は国民皆兵主義をとなえていたにもかかわらず、免除や代人を認める兵役免除規定が設けられていた。すなわち兵役を免除されるのは、(1)戸主やその相続者、(2)犯罪者、(3)身体未発達の者や病弱者、(4)官吏、所定学校の生徒、洋行修業者、陸海軍学校生徒など、(5)代人料二七〇円を上納する者、となっており、終身免役であった。徴兵免除の理由は当然(1)に集中し、しかも徴兵忌避のためのものが多かった。政府は国民皆兵の実をあげるため、以後の徴兵令改正にはこれら免役規定の縮少や撤廃をすすめた。まず明治十二年の改正では終身免役は(1)と(2)とに限定したが、(1)のうち作為的な徴兵忌避と見做されるものは除外された。また(3)では府県会議員、官公立学校教員を加えたが、平時免役、平時一年徴集猶予などの規定が加えられた。明治十六年改正では身体障害者、重罪の受刑者以外は兵役を免除されず、他は猶予のみとなり、代人料による免役も廃止された。明治二十二年の改正では五〇歳以上の者の嗣子・承祖(祖父のあとを継ぐ)の孫、廃疾戸主の嗣子・承祖の孫、戸主に対しての猶予が廃されたが、家族の生計維持のため願いがあったときは徴集延期が認められた。また官立大学等の学生の猶予上限を二六歳とし、官公立学校教員の猶予制は廃止されたが、師範学校卒業生の六ヵ月短期現役制は認められた。政府の意図は学校教育への軍国主義化と高学歴所有者に軍隊教育をほどこし、予備・後備役幹部を充実させようとするものであった。

 明治二十二年に改正された徴兵令における国民の服役区分は現役三年、現役終了後の予備役四年、予備役終了後の後備役五年であったが、この兵役期限は戦時等に際しては延期することも規定されていた。予備役・後備役は平時においては毎年一度六〇日以内の勤務演習のための召集、ないしは、毎年一度の簡閲点呼が行われた。また補充兵は現役兵の補欠にあてられたが、平時には五〇日以内の教育召集をうけたほかは予備役兵と同様であった。

 この徴兵令改正に前後して、近代軍制が一応確立される。それは明治二十一年五月十二日の鎮台条例の廃止と師団司令部条例等の設置である。明治六年の近衛および六鎮台、歩兵一四個連隊の編成は、鎮台の廃止とともに師団編成となり、七師団、歩兵一四旅団、砲兵七連隊、騎兵二大隊、工兵六大隊半、輜重兵六大隊の整備となった。埼玉県地方の徴兵は東京鎮台の管下にあったが、以後、第一師団の管下となった(明治二十四年十二月から編成される近衛師団にも一部は召集される)。第一師団には第一、二旅団があり、徴募のための大隊区は第一旅団管下に麻布・高崎の両大隊区、第二旅団管下に本郷大隊区がある。大隊区司令は管下の徴兵を司り佐官クラスの将校が任ぜられた。大隊区の下に監視区が設けられ、本郷大隊区には浦和・岩槻の両監視区があり南埼玉郡は岩槻監視区管下におかれ、その区長は曹長があてられていた。