徴兵検査

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明治二十二年の全国の徴兵実施状況をみると、実際に現役として兵役に服する者は適齢人口三六万三五七人中の一万八七八二人で五・二%となっている。この五・二%の壮丁が現役、予備役、後備役を通じて一二年の負担に耐えねばならないのである。そして五八・六%の二一万一二五六人は生涯にわたり兵役を免除されたものであり、国民皆兵とはいうものの実態はかなりの不平等であったといえる(第78表参照)。

第78表 明治22年徴兵実施状況
20歳に達した適齢者 309,234人
前年からのひきつがれた者 50,664人
志願者 459人
小計 360,357人
類別
陸海軍現役 18,782人 (5.2%)
陸海軍予備役 74,561人 (20.7%)
徴集猶予 17,826人 (5.0%)
免役(疾病他) 211,256人 (58.6%)
逃亡不参 35,940人 (9.9%)
其の他 1,992人 (0.6%)
合計 360,357人 (100.0%)

藤原彰「日本軍国主義の戦略思想」(『思想』No.365)所引『陸軍省第三回統計年報』

 明治二十二年の改正徴兵令以前は徴兵検査は県から郡、戸長役場へと検査日割が通達された。戸長は壮丁をとりまとめ、当日、検査所へ出頭せねばならなかった。失踪逃亡者については警察署の認証をうけた届書を提出した。病気により検査に出頭不可能な者は医師の診断書を付し、自宅検査の手続をした。また、刑期中の者についてもその旨を記した届書を提出せねばならなかった。

 改正徴兵令以後においても、方法・手続は同じで町村にかかる徴兵事務は大きな負担となっている。明治二十二年の南埼玉郡徴兵検査日割表によると七月末から八月初めにかけておこなわれている(第79表参照)。越谷市域における徴兵検査は大沢町の福井権蔵宅でおこなわれたが、当日都合ある者は粕壁町まで出向いて検査をうけた。

第79表 明治22年第二旅団管下埼玉県南埼玉郡徴兵検査日割表
月日 検査所
7月27日~8月10日 岩槻町大字岩槻本庁構内議事場(徴兵署)
7月27日~28日 岩槻町大字岩槻 芳林寺
7月30日~31日 菖蒲町大字菖蒲 吉祥寺
8月2日~3日 久喜町大字久喜本町 甘棠院
8月5日~6日 粕壁町 最勝院
8月8日~9日 大沢町 福井権蔵

『明治21~23年上間久里兵事抜粋録』

 以上の徴兵検査時と検査合格後における壮丁への入営前教育ならびに予備役・後備役の教育をになう組織として、明治十九年南埼玉郡兵事会が設けられた。同兵事会は、明治二十二年の徴兵令改正後は各地の徴兵慰労義会支会と提携しつつ、前述した事業を展開していた。また徴兵慰労義会支会では予備役・後備役の者は本籍・寄留を問わず、すべて横三寸、竪(たて)八寸の木札に、番地、何年徴兵何兵何番、何年予備(後備)役何等卒の何某と記して門戸に掲示し、その費用は同支会より支出した。また「在郷諸兵」に対して二月と九月の年二回、各地に召集をかけ、徴兵等に関する規則の説明、重要事項の試問等の教育をおこなった。その規則、重要事項とは以下の内容である。軍人勅諭の読法と遵奉、軍人としての志操の維持、予備役・後備役の別や服役期間、軍隊手帳紛失の時の心得、結婚等の身上異動や旅行等の願届と手続、寄留地点呼応召の手続、兵員散髪の制、充員召集または後備軍召集令状を受けた時の心得、召集地に赴く途中の宿泊心得、あるいは旅費欠乏の場合の心得、埼玉県の師管・旅管・大隊区・監視区の名称・区分、陸軍大将と大臣の勲等・姓名、第一師団長・第二旅団長・本郷大隊区司令官等の勲等・姓名・階級、岩槻監視区長の姓名・階級等である。

 徴兵検査と壮丁の軍事教育が整備されてくると同時に、軍が軍事目的に危急の際に必要な物資等を徴発する体制もできた。すなわち、戸長役場や各町村役場から村内の戸数、人口、職工、社寺、学校、人夫、馬車、人力車、大八車、牛車、乗馬、駄馬、物産等を書きあげた「徴発物件表」を提出させている。とくに駄馬についての報告を明治二十年以降、たびたびにわたりおこなわせている。

 明治二十一年当時、上間久里村連合つまり桜井村では、主に明治元年生れの者で八月二十七日におこなわれる徴兵検査に応ずべき者は合計二〇名であった。このうち検査合格者は七名、翌年廻しになった者は二名である。この検査合格者七名の内、数名は総代人の抽籤で現役兵として振りあてられるのである。残りはすぐ予備役編入となる。抽籤総代人は当時三名いたようであるが、その報酬手当は壮丁一人から一~二銭を徴集してこれにあてており、兵事会が管掌していた。第80表は大袋村の現役兵・補充兵の明治二十~四十五年における数の変化をしめているが、明治三十年までは現役兵として召集される者は極く僅かである。それ以後は補充兵数ともども増加する傾向である。徴兵制が確立する過程では、徴兵への逃亡・失踪による不参が数多くでている。明治二十二年の段階で全国で逃亡不参は三万五九四〇名で同年の検査対象者の九・九%にあたっている。しかしこの九・九%は明治二年生れで明治二十二年に徴兵検査適齢者のみに占める割合ではなく、徴兵令が施行されてから、検査をする明治二十二年までひきつがれてきた者である(第78表参照)。

 桜井村でも上間久里村連合当時から失踪一名、逃亡三名がでている。このうち失踪した者については欠席のまま浦和軽罪裁判所で徴兵令違犯の罪名により重禁錮二ヵ月と罰金五円の刑が明治二十年十二月一日に申渡されている。下間久里村在住のこの者は嘉永五年生れで明治八年の徴兵に相当していたが、戸籍落ちしていたため、明治二十年二月一日に就籍した。ところがそのため、同年の徴集があるというので四月七日に失踪してしまったわけである。三二歳になって落籍のためとはいえ、徴兵検査をうけ、時には一二年にわたる兵役がかけられるかもしれぬ不安により失踪したものであろう。桜井村では明治三十七年までに合計九名の逃亡・失踪者がでており、越谷市域全体では相当な数であったことが推測される。

第80表 大袋村現役兵・補充兵数
年次 現役兵 補充兵
明治20 5 16
21 1 5
22 0 4
23 2 3
24 0 5
25 2 12
26 3 6
27 4 2
28 1 4
29 3 4
30 3 5
31 10 9
32 6 7
33 3 10
34 6 9
35 8 15
36 5 6
37 6 12
38 7 23
39 2 9
40 9 7
41 10 9
42 6 14
43 11 7
44 8 5
45 4 8

『大袋現役兵名簿・補充兵名簿』