徴兵検査に合格し、召集された現役兵は満期除隊までどのように服役したのであろうか。『明治二十一年上間久里 兵戸発議書類』にある平方出身の一兵士の「在営服務中履歴書」によると、彼は徴兵検査の結果徴集され、明治十八年四月二十三日に東京鎮台歩兵第三連隊第三大隊第三中隊に編入された。その後、約五ヵ月後の九月二十八日に歩兵二等卒を申付けられた。十月五日~七日の間、東京北豊島郡における連合演習、十一月二十九日から二週間にわたる千葉県習志野原の秋季野営演習に参加している。この間、十月と十二月には慰労休業をそれぞれ三日間と、十一月には褒賞休業を三日間与えられている。
翌明治十九年になると三月十日より二週間にわたる習志野原においての野営演習の終了後上等兵学科を卒業し、翌四月一日に一等卒に進級、日を経ずして上等卒に進級の上、第三大隊第二中隊の第五分隊長に任命された。四月九日から二週間春季小演習に千葉県千葉郡に出張する。この春季小演習終了後の四月末に三日間の褒賞休業を与えられ、さらに六月十九日から一五日間、二五〇日精勤の褒賞休業も与えられ、八月八日から二十六日まで帰省も許されている。十月二十七日から三日間、神奈川県府中に定期検閲野外教練に参加し、十二月十五日から二週間、千葉県千葉郡へ秋季演習に参加する。彼のここまでの軍歴は一応、申分ないようである。しかし、翌年五月七日より五日間、「訓導ノ道ヲ失スル科(とが)」により軽営倉の処分をうけている。分隊長として分隊の指揮に失敗があったのではないかと思われる。ついで八月二十五日より二週間、脚気予防のため習志野原に赴いている。明治時代の軍隊において脚気が大きな問題で糧食等についての改善、改良が加えられているが、やはり脚気にかかる者が多かったようである。九月には中隊五〇日精勤により、合せて二日間の休業が与えられている。十月八日から二十五日の間、秋季小演習として習志野原に行っている。ところが理由は不明ながら翌明治二十一年三月二十一日から三日間、「諸則ヲ遵奉セザル科(とが)」のため、重営倉の処分をうけた。彼は三年間の現役兵服務期間中、上等卒には早く進級しながらも、軽・重営倉を各一回うけている。彼の満期除隊は明治二十一年四月二十日であったが、その後予備役を四年、後備役を五年、計九年をつとめなければならなかった。