徴兵が実施される時に現役として徴集されない者は直ちに予備役に編入された。その義務は形式的なものであり、実質的には兵役を免れる幸運を得たといってよい。これに対して現役として徴集された者は三年間の兵営生活をし、その後も九年間、予・後備役として召集におびえねばならない。しかも、国民皆兵という名の下になんらの保障も特典もない。このため、召集兵に対し、地域社会としては形だけでも一定の慰労、後援をおこなう必要が生じてきた。
明治十九年一月南埼玉郡において、なかば行政組織と同様の南埼玉郡徴兵慰労義会が郡長間中進之を会長として組織されたが、この下部組織が各村々に設けられた。たとえば上間久里村連合では明治二十年六月各大字を単位とした徴兵慰労義会が設けられ上間久里村連合支会と称された。徴兵慰労義会の会員資格は戸主であり、慰労の内容としては金穀、物品の贈与ならびに敬礼等となっている。その慰労にあたっては一・二・三等という等差が設けられていた。このうち「本営中服務勤勉行状方正技芸熟達、服役半ニシテ帰休ヲ命ゼラレ、若クハ満役ニテ精勤証書ヲ所持シ、或ハ勲章又ハ従軍章ヲ得、帰郷スルモノ」(「徴兵慰労義会上間久里村連合支会規則」、『桜井壱種発議書類』以下同じ)を一等とし、金二五円~一五円が支給された。二等は「前項ニ亜ギ服務勤勉行状方正無罰及ビ内国戦ニ服シテ帰郷スルモノ等」で金一五~一〇円が支給された。「在営中徴罰ニ処セラレタコトアルモ、一時ノ過誤失錯ニ出テ不行不正ナラザルモノ」は三等とされ、金一〇円以下が支給されることになっていた。
また戦死あるいは公務によって死亡した者は第一等と同金額が家族に贈られた。公務負傷による除役・除隊は軽重が酌量され、一~二等の金額が贈られた。在営中の病死はその在営期間により二~三等の金額が家族に贈られ、疾病による除役・除隊等は在営中の行状により二~三等の金額が贈与された。
以上の規定は召集・志願の別なく適用されたが、「輜重輸卒ハ現役ヲ終ヘタルモノト雖モ慰労ヲ贈与セズ、然レドモ勲章ヲ得、又ハ戦役ニ服シタルモノハ情況酌量シ、二等以下ノ金額ヲ贈与ス」と輜重輸卒を差別していた。また、慰労金の贈与にあたっては「人名等級ヲ本人在籍ノ村へ掲示シ、以テ其ノ名誉ヲ表彰ス可シ」とされていた。これらの慰労金の贈与の規定やその差別的内容、あるいは村への表彰のための掲示は徴兵慰労義会がたんなる召集兵たちへの村民の慰労・後援というより、優秀な兵士として服役した者を中心に、村ぐるみで国家の強兵を創り出す基礎づくりをとくに強くおしだしていることによる。輜重輸卒に対する差別にみられるごとく、直接銃をとって戦闘する者以外は兵としても基本的に認めないという考えがあり、しかも慰労の支給・贈与は、保障・特典よりも名誉とする考え方であった。
徴兵慰労義会は上から行政的に組織されており、したがって支会長は村長が任じられていた。支会の委員は、たとえば桜井村では上間久里二名、下間久里二名、大里二名、大泊二名、平方四名と割当てられたが、明治二十六年現在で桜井村総戸数三八七戸中三五九戸が会員であり、総戸数の九割以上が組織されている。会運営上の費用は義捐金と一般会員への賦課金の二種で毎年一月中に賦課金を徴集した。総会は毎年一回、一月上旬に開かれた。明治二十一年の予算規模は二四円である。こうした徴兵慰労義会事業のねらいは村を支えとする軍国体制の構築にあり、それも軍国体制構築の費用を一般村民の負担とするものであった。