日清戦争

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明治二十七年五月一日朝鮮全羅南道に暴動がおこり、南朝鮮一帯にひろがった。これを東学党の乱という。同年六月、かねて韓国にその勢力を扶殖しようとしていた日清両国は相互に出兵通告をおこなったが、七月二十五日には日本艦隊の軍艦が豊島沖で清国軍艦を攻撃し、ここに戦闘が開始された。日本は八月一日に清国に宣戦を布告、これを日清戦争という。戦争は明治二十八年四月、日清講和条約の締結によって終了する。

 その間埼玉県では明治二十七年七月二十四日の第一回動員令から、明治二十八年七月まで合計三十五回の動員令が発せられ、三九七二名の兵員が召集された。郡別は第81表のとおりである。埼玉県から召集された兵士は黄海海戦後の直隷省(河北省)制圧のため渤海湾頭の遼東半島の旅順を攻略する必要に迫られて編成された第二軍の主力たる第一師団に属した。第二軍は熊本第六師団の半分の混成第十二旅団および仙台第二師団と東京第一師団により編成された。軍司令官は当時陸軍大臣であった大山巌陸軍大将であった。第二軍は十月二十四日、遼東半島の花園口に上陸した。上陸後、第二軍は金州をおとしいれ、海軍支援のもとに大連を攻略したが、旅順は十一月に攻略した。この旅順攻略戦にあたっては、国際的な問題になった旅順虐殺事件がおこっている。

第81表 郡別兵員召集数
郡名 陸軍 海軍 郡名 陸軍 海軍
北足立 624 1 大里 396
新座 旛羅
入間 638 榛沢
高麗 男衾
比企 336 1 北埼玉 571
横見 南埼玉 482
秩父 371 北葛飾 381
児玉,賀美,那珂 169 1 中葛飾 1
3,968 4

『埼玉県議会史』第二巻

 これは旅順攻略前の戦闘による日本軍戦死者の死体に清国兵が凌辱を加えたことに発端し、怒った日本軍将兵が旅順占領にあたって市民・婦女子を見さかいなく虐殺した事件である。遼東半島を制圧した後、翌二十八年二月から第一軍の名古屋第三師団に応援した第一師団は広島第五師団とともに、牛荘、営口、田庄台を攻略した。

 また、埼玉県からは近衛師団に召集された兵士もいた。彼らは、日清戦争後の明治二十八年五~六月の台湾占領に出兵しており、占領の際の台湾島民との戦闘で八五名の戦病死者を出している。日清戦争全体で埼玉県出身兵士の戦病死者は二五九名を数えるが、とくに病死の数が多い。第82表はその郡別を示したものである。

第82表 埼玉県出身兵士日清戦争戦病死者数
郡別 戦死 病死 合計
北足立 12 28 40
新座 4 4
入間 3 43 46
高麗 3 13 16
比企 3 16 19
横見 1 3 4
秩父 1 16 17
児玉 4 9 13
賀美 3 3
那珂 2 1 3
大里 4 4
旛羅 6 6
榛沢 2 10 12
男衾 1 5 6
北埼玉 3 18 21
南埼玉 5 20 25
北葛飾 3 16 19
中葛飾 1 1
46 213 259

『埼玉県議会史』第二巻

 兵站(たん)を確保するには馬匹を必要としたが、馬匹徴発は明治二十九年九月から二十八年六月まで七回、合計二一八九頭が徴発された。桜井村では明治二十七年七月に牡駄馬計一〇頭が徴発されている。また軍事公債の募集は二回あり、県下での応募額は二〇五万五一〇〇円に達して成績は一応の成果をあげた。