応召兵士

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日清戦争に桜井村からは現役兵六名中戦地に派遣された者は三名、予備役召集三人のうち二名、後備役召集七名のうち二名、このほか三人の軍夫が戦地に派遣されている。このうち戦病死は二名、病のため帰郷した者は二名である。

 桜井村から戦地に赴いた兵士の「軍人履歴書」からその様子をうかがってみよう。その一人、第一師団騎兵一等卒の兵士は明治二十四年十二月一日に同師団騎兵第一大隊に入営し、明治二十六年十二月三十日帰休した。翌二十七年八月三十日充員令により現役延期となり、実役は二十八年六月九日に延長された。第二軍に属し、明治二十七年十月五日に宇品港を出帆、二十六日に花園口に上陸、金州攻略作戦に従軍した。その間に伝令や敵状偵察等の任務につき、二十八年二月九日の田庄台の戦闘を最後に帰国する。また第一師団歩兵一等卒であった兵士は明治二十一年十二月一日歩兵第三連隊第九中隊に入営、二十四年九月三十日で予備役に編入されたが召集された。彼は明治二十七年十月十八日に宇品港から花園口に上陸し、十月二十八日から十一月十日まで兵站拠点の劉家店を守備し、十一月二十一日から旅順口攻撃作戦に従った。翌二十八年二月に蓋平から大平山と海城付近の戦闘に参加の後、四月二十二日に復洲城付近に陣営し、講和条約による終戦をむかえた。五月十九日に帰国の途につき六月八日帰営、六月十三日に召集解除となっている。さらに明治二十四年十二月一日に工兵第一大隊第三中隊に入営した兵士の場合はどうであったか。服役は日清戦争の終了時までの明治二十八年六月十三日まで現役期間が延期されたわけである。彼は工兵上等卒であったが、日清開戦後の八月三十日戦時工兵第二中隊に編入され、十月十五日宇品港を出帆し、花園口に上陸した。花園口の兵站作戦として橋梁を架橋し、金州より旅順作戦に従い、十一月二十一~二日の椅子山砲台攻撃に参加、翌二十八年一月から山東省摩天嶺砲台攻撃に従軍、大平山と田庄台攻撃に従い、三月に至った。ついで三月二十一日から二十六日にわたる蓋平河架橋作戦に参加したが終戦にともない大連より出帆し、六月九日に帰京している。また戦地から桜井村役場に送られた手紙に戦況の一端が記されていることもあった。たとえば第二旅団歩兵第三連隊第九中隊に所属する兵士の便りには「西少将ノ指揮ニテ旅順ヲ攻撃ナシ、我軍ハ砲台ヲ占領セシ、第二軍ハ本道ヲ進ミ砲台ヲ攻撃シ、午後四時旅順ヲ先(ママ)領ナシタリ、弾丸ハ雨ノ如キ中ニモ幸イ無事只今ハ金州附近ニ在而冬□リ罷在候間此段御休神(ママ)有之度」とあり、戦闘の激しさが伝わってくる。これに対し桜井村役場からの返信は、戦闘の勝利をたたえた内容であり、村の様子や、家族のことにふれ、心配ないよう伝えている。たとえば「(前略)我地方悉ク平穏、昨二十七年十月ヨリ十二月ニ至リ米麦高価ニ向キ不穏ト思慮アリシモ、同十二月ヨリ本年ニ至リ二割余ノ下直故、征清軍人ノ健全大勝ノ報ニ拠リ、貧富者ヲ問ハス愛国心ヲ起シテ平穏ナリ(後略)」とある。