桜井村の戦病死者は二名である。その一人は歩兵上等兵の兵士である。彼は明治十八年四月二十三日東京鎮台歩兵第三連隊第三大隊第三中隊に現役兵として入隊、明治二十一年四月二十日より予備役に服した。同二十七年八月三十日に召集をうけた時は後備役であった。歩兵第三連隊に属した混成技隊に編入され、二十八年三月六日に宇品港より出航同二十三日澎湖島正角に上陸、尖山付近の戦闘や馬公城攻撃に加わった。しかし二十五日コレラ病に罹り、馬公城避病院で二十九日に死亡した。混成技隊後備歩兵第五中隊から遺族へ寄せられた手紙に戦地の悪疫の激しさがのべられている。「(前略)病勢日々激烈ニ及ヒ、毎日入院スル者百余人モ有之、一時ハ入院患者殆ント千人ノ多キニ相達シ、従テ死亡スル者日々益々増加シ、実ニ惨状ヲ極メル折柄、従軍僧侶ノ内ニモ死亡者有之、遂ニ一々火葬スルコト能ハス、乍遺憾頭髪ノミ送ルコトニ相成候処、是レ又取ルコト能ハザル悲境ニ陥リ、特ニ御気之毒至ニ御座候(後略)」と遺骨はおろか遺髪さえもないという有様であった。
戦病死者のもう一人は陸軍工兵二等卒の兵士である。彼は明治二十五年十二月一日、第一師団工兵第一大隊に入営し、現役兵として日清戦争に従軍した。明治二十七年十一月二十一日の旅順口攻撃に参加、過労のため倒れたが、はげしい北風のなかの露営で衰弱、翌年一月金州舎営病院に入院したが三月二十日に死亡した。これら疫病で死亡する戦地の状況は村々にも伝わったが、桜井村役場では各大字衛生組長あてに「征清軍人」の凱旋に際しこの悪疫を内地に伝染させないようとくに本年(明治二十八年)は病源排除実施を徹底する旨を訓示していた。戦死者よりも戦病死者がはるかに多かったのが日清戦争の特徴であった。