慰問と歓迎

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日清開戦以来日本軍の連戦連勝を祝し、各地で祝勝大会が挙行されたが、越ヶ谷町でも二十八年二月二十三日、盛大な祝勝大会を催し、「大和義勇献金」と称した戦時献金を募った。

 また出征軍人の家族に対し、慰問が行われたが、南埼玉郡徴兵慰労義会においては、金六円宛の慰問金を従軍者家族に贈っている。各町村でも独自に慰問のため軍人家族を見舞ったが、桜井村では村内有志の義捐金を集め、一五人の軍人家族に金四円宛の慰問金を贈っている。また南埼玉医会では、従軍家族に対する医療奉仕の実施をきめていた。出征者のなかには働き手を失って困窮している家族が多かったからである。二十八年八月に行われた「応徴兵士家族生活実況調」によると、桜井村の従軍者家族中、他人の助力を得て生計を立てていた家が八戸、やや生活に困難な家が一戸、生活上影響がない家が六戸となっている。

 講和が成立し、応召軍人が帰郷すると、各地で帰還軍人の歓迎会が開かれた。南埼玉郡においても、徴兵慰労義会主催の軍人慰労会が二十八年七月七日南埼玉郡役所内で開かれている。当日は来賓に本郷大隊区司令官をはじめ県知事や警察署長などが招かれ、七五〇余名の出席のもとに、花火の打揚げなどで盛大に挙行された。このとき南埼玉郡出身の帰還軍人三八〇余名に慰労金と記念木盃、それに反物一反が贈られた。なお、この経費は総額六〇〇〇余円であったが、徴兵慰労義会では一町村平均約一五〇円宛の割当徴収を行なってこの費用に充当した。

 このほか各町村ごとの慰労会も挙行された。このうち出羽村の慰労会は六月二十五日出羽村小学校で開催された。会場の入口にアーチを設け正面に「祝凱旋」の額を掲げ、門内に装飾を施し、撃剣会場も設けた。出席者は三〇〇余名、来賓に南埼玉郡長代理、越ヶ谷警察署長代理の出席があった。式場正面に両陛下の御真影を掲げ、小学校生徒の君が代斉唱の後に村長の祝辞等があり、従軍兵士に金円の贈与をなし答辞ののち宴にうつり午後七時に散会したが盛会であったという。

 また桜井村での帰郷軍人歓迎会は同年七月九日に村内三六五名の拠金で桜井小学校で正午より開催された。式では渡清兵士一人につき七円と記念木盃、その他兵士に一人五円と記念木盃、戦病死軍人遺族に七円と記念木盃等を贈与した。式終了後の宴会は有志八五名の拠金により兵士と遺族を招待しておこなわれている。

 また、越ヶ谷町では、八名の応召者があったが、帰還の際は親戚や近隣の人びとの歓迎をうけただけで、町役場などでは出迎えもせず、慰労会も開かれなかったという。しかし越ヶ谷・大沢組合町は、翌二十九年一月、出征兵士の名を掲げた埼玉県知事千家尊福書による戦勝記念碑を久伊豆神社境内に建立した。

久伊豆神社戦勝記念碑