徴兵の忌避

287~288 / 1164ページ

日清戦争は日本の大勝利のうちに終ったが、日本政府は次の大陸戦に備え、さらに軍部の増強と臨戦体制の整備を推し進めていった。しかし徴兵される国民のなかには、軍隊を嫌い逃亡したり失踪したりする者も少なくなかった。

 明治二十九年までの徴兵者の逃亡・失踪数は、全国で四万五九八〇名、さらに三十四年には五万八一二九名にのぼっている。つまり毎年平均二〇〇〇名近くの逃亡者や失踪者があったわけである。埼玉県においても徴兵に応じない者が、三十年度六五名、三十一年度五七名、三十二年度六七名、三十三年度五八名、三十四年度五九名を数えている。これを町村単位でみると、たとえば桜井村では明治十三年二人、同十六年一人、同二十五年一人、同二十九年一人、同三十年一人、同三十五年一人、同三十七年一人で、明治三十七年までに八名を数えた。このなかには軍隊を逃亡し、自殺をはかる者も少なくなかったようである。

 たとえば明治三十六年一月、栃木県下都賀郡吹上町出身の第一師団歩兵第三連隊第七中隊所属歩兵二等卒のある兵士は、軍隊を逃亡、桜井村大里地内の東武鉄道線路に飛込み自殺を遂げている。なお、この自殺者の遺物、軍隊手牒・軍帽・銃剣・革帯・軍靴は、歩兵第三連隊に送付されたが、桜井村役場で立替えた仮埋葬費用金六円九六銭は、本人の遺族宛に請求された。しかし本人の遺族も困窮者とみられ、しばしば催促したが一向に償還されなかったので、桜井村では同年六月、督促令状を執行、財産差押処分を吹上村役場に付託した。その結果同月二十九日吹上村役場から桜井村村費繰換金分の仮埋葬料がようやく償還された。

 こうした徴兵失踪者やその忌避者の増大に、軍部は壮丁名簿の提出とともに品行調査書の添付を命じたり、しばしば在郷軍人履歴書調査を実施した。

 また兵士の訓練のため、しきりに軍事演習を行なったが、二十九年十月、越谷周辺においても近衛師団の秋季機動演習が実施された。このとき一個大隊約六七〇名が大袋村の農家に、五二〇名が桜井村の農家に分宿し野戦訓練を行なっていた。