日清戦争後日本は、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉をうけ、遼東半島の還付など大陸進出の望みは遠のいた。これに対し政府は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」というスローガンを掲げ、三国干渉の報復と、遼東半島ならびに満州の獲得をめざして軍備の拡張に乗り出した。
こうしたなかで明治三十三年、清国に義和団事件が発生すると、日本をはじめ列国は清国に出兵したが、事件解決後もロシアは満州から撤兵しようとはせず、満州の独占的な支配を進めようとした。日本はこれに対し日英同盟を締結してロシアに対抗、同三十七年二月、陸軍は仁川に上陸して進攻を開始したが、海軍もまた主力艦隊をもって旅順港のロシア艦隊を奇襲攻撃、ここに両国は宣戦を布告して戦争に突入した。
日本はこの緒戦において有利な戦いを進め、同年八月遼陽の合戦に勝利をおさめたが、その後こう着状態が続き、両軍沙河をはさんだままきびしい冬を迎えた。一方旅順の包囲作戦を進めていた別動隊は、多くの犠牲者を出しながら八ヵ月間にわたってはげしい戦闘を続けたが、翌三十八年一月、ようやく難攻不落と称された旅順を陥落させることができた。そこでこの旅順の攻略軍も沙河の戦線に投入されることになった。同年三月、奉天付近で大合戦が行われ、一〇日間の激戦の結果日本軍の勝利に終った。またロシア軍が運命をかけたバルチック艦隊は、五月二十七日対馬海峡で日本艦隊と遭遇、はげしい海戦となったが、バルチック艦隊はこの戦いで全滅した。
このとき日本の戦力はすでに涸渇し、新たに戦闘をおこす余力はなかったので、軍部側から急速な講和が主張された。このため日本政府は米国に講和の斡旋を依頼、同年八月ポーツマスにおいて講和会議が開かれ、九月に調印式が行われて戦争は終った。