出征軍人と戦没者

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日露の開戦にあたり、軍部は大規模な動員令を発した。埼玉県では三十七年二月五日の第一回動員召集から、三十八年八月まで五四回にわたって動員令が発せられ、二万二二五四名が召集された。これらの将兵は主に近衛師団と第一師団に編入され、第二軍団に所属して戦地に派遣された。

 このうち桜井村の召集兵は現役一三人、予備役一一人、後備役九人、補充兵一七人、帰休兵一人の計五八名であったが、うち一名は事故不参、四名が疾病送還、二名が戦没者である。このほか桜井村では金六〇円の代償で馬一疋、金一〇円の割で荷車二三輛などが軍事徴発をうけていた。

 またこの戦役では多数の戦没者がでたが、とくに旅順の攻略戦における戦死者は、およそ五万九〇〇〇人にのぼったといわれる。越谷地域での戦没者は、蒲生村で八名、増林村で七名、荻島村で五名、出羽村で三名、越ヶ谷で二名を数えた。このうち戦没者の一人越ヶ谷町陸軍歩兵上等兵の履歴によると、明治三十七年八月十二日召集をうけ、同十一月十五日大阪港を出航、同二十日清国青泥窪に上陸、翌二十一日金州県金竜寺溝に到着、同二十六日から旅順口松樹山の攻撃や、同三十日から十二月一日にかけての赤坂山の戦闘に参加、同十二月十八日旅順口二〇三高地の攻防戦に奮戦、このとき前頭部に弾瘡をうけて戦死、功七級金〓勲章をうけるとともに、年金一〇〇円、勲八等白色桐葉章を授与された。

 この戦死者の町葬は三十八年十二月十八日越ヶ谷天嶽寺で執行されたが、越ヶ谷警察分署長、近隣町村長をはじめ、地元選出県会議員、郡会議員、小学校長などが参列、盛大な葬儀であった。また各町村においても、地元出身将兵の戦没が伝えられ、その遺体が送られてくるごとに、いずれも盛大な町・村葬が執行された。