日露開戦とともに、政府は軍事資金の調達のため、多額な国債を発行したが、その戦費の半ばに及ぶ八億円は外債で賄われた。国内では四億八〇〇〇万円を五回にわたって各町村に割当てたが、このうち南埼玉郡の第一回国債割当額は四一万二〇〇〇円であった。このとき越ヶ谷町には三万円、出羽・増林・川柳の各村は一万六〇〇〇円、大相模村が一万円、蒲生村が七〇〇〇円、大袋村が六〇〇〇円、荻島・桜井の両村が五〇〇〇円、大沢町が二〇〇〇円の割当募集額であった。この国債の割当募集はその後も続いたが、郡役所の督励などでおよそは消化されたようである。
また帝国海軍協会の呼びかけで義勇艦隊建設資金の寄付募集が行われたが、これをうけて西方大聖寺では、今後一層の節倹に努め、国恩に報いるとの趣旨により金一〇〇円を海事協会に献金した。このほか陸軍恤兵部へ、金品の献納を申出る者が多かったが、その品目は、金銭のほか、慰問袋・真綿・懐爐(かいろ)・綿入チョッキ・手拭・梅干・漬物、はては草鞋などに及んだ。しかしこれらも運搬途中梱包が破損して、折角の好意も無駄になることもあるので、梱包を堅固にするよう恤兵部から注意が達せられることもあった。さらに陸軍省では厳寒を迎える戦地の駐営用として、毛布の献納をひろく要請したが、桜井村では四五枚の毛布献納申出があり、三十七年十二月これを陸軍被服廠に送付している。