出征家族の援護

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動員令によって応召した出征軍人のなかには、一家の支柱を失って生活に困窮する家族も少なくなかった。たとえば桜井村出征者の一人は、「農業ヲ営ムモ、土地ヲ有セズ、小ナル家屋一棟アルノミ、小作得玄米四斗、大麦二斗、大豆一斗、僅カニ日々糊口ヲ凌ギ居ルモ貧困ヲ免レズ」出征後は、「妻ガ僅ノ小作ヲナスモ平素身体虚弱、殊ニ幼児等アルニヨリ業充分ナラザル為メ貧窮」におちいっているとあり、また同じく出征者の一人は、「一家ノ主働者ニシテ平素業務ニ勉励シ、漸ク一家ヲ維持シ来リタルモ」出征後は、「妻ガ一家ヲ主宰シテ農業ヲ営ムモ、母ハ老年ニシテ労力ニ堪ヘズ、殊ニ弟ハ生来病身ニシテ家業ノ助トナラズ、妹ガ他家ヘ雇ニ入リ、賃金ヲ以テ家計ノ何分カ補助スルモ、老幼病者ノ家族アル為メ貧窮セリ」とあるごとく、悲惨な状態に置かれた者もいた。

 これに対し各町村では、出征軍人留守家族の慰問や援護に乗り出し、各所に救援活動のための組織がつくられた。たとえば桜井村では「救護作業会」と称し、この規約によると、一家の支柱が応召のため、「労力欠乏シ農業弛廃セントスルモノアルトキハ、隣保相互救援ノ大義ニ基キ、協力シテ其農業ヲ補助救護スル」となっており、この救援作業は無報酬でしかも酒食の饗応をうけてはならないとされている。また越ヶ谷町では「出征軍人家族救護会」と称し、その決算書によると、軍人家族救護費に一二六円五〇銭、疾病軍人及び家族慰労金に一六円が支出されていた。

 さらに南埼玉郡役所では、出征軍人中生活困窮家族に対し、医療の無料診療を実施したが、この無料診療に登録された家数は、大袋村で一四軒、増林村で一一軒、越ヶ谷町で六軒、蒲生村と川柳村で各五軒、その他となっている。ちなみに当時の医師数は、越ヶ谷町に四医院、増林村に三医院、大沢・大相模・蒲生・川柳・荻島の各町村に各一医院があった。このほか徴兵慰労義会の救援活動も活発に行われたが、慰労義会は原則として会員制による会費で賄われていたため、多数の戦事応召者がでて資金に涸渇した。このため人頭割、所得割でその資金を調達したが、その割当額は第83表のごとくである。

第83表 慰労義会資金割当額
町村名割当額
越ヶ谷町1,638
出羽村932
増林村898
川柳村744
大相模忖686
蒲生村670
大袋村569
桜井村504
荻島村465
新方村417
大沢町398