愛国婦人会は、明治三十三年の北清事変に際し、現地で戦う日本軍将兵の慰問に訪れ、その辛苦を知った奥村五百子の提唱により、翌三十四年に創立された。この組織は、銃後婦人の消費節約で得た会費によって運用される婦人報国をうたった会員制による団体であり、その目的は、戦没者ならびに傷痍軍人の救済にあった。そのほか軍事事業の後援や社会事業にも乗り出し幅広い活動を行なったが、郡部町村にこの愛国婦人会が結成されたのは明治三十七年日露戦争開始を契機としたものであった。
当時この会に賛同して入会した会員は第84表のごとくきわめて少なかったが、郡長の勧誘などで逐次会員数が拡大された。それでも入会や脱会の変動が大きく、しかも村落指導者による特別な会員構成で、一般の人びとまでは容易に定着しなかったようである。会員は一定額の会費を納入した終身会員と、年会費を二期に分けて納入する通常会員とに分けられていたが、越谷地域町村の会員はすべて通常会員であった。
町村名 | 明治37 | 明治42 | 大正2 |
---|---|---|---|
人 | 人 | 人 | |
越ヶ谷町 | 21 | 39 | 30 |
大沢町 | 5 | 18 | 13 |
桜井村 | 0 | 13 | 13 |
新方村 | 0 | 32 | 32 |
増林村 | 4 | 34 | 28 |
大袋村 | 0 | 29 | 30 |
荻島村 | 4 | 13 | 14 |
出羽村 | 15 | 25 | 20 |
蒲生村 | 8 | 28 | 25 |
川柳村 | 9 | 26 | 25 |
大相模村 | 8 | 36 | 39 |
愛国婦人会はその後明治三十八年五月、法人組織となり、従来郡長が兼任した郡部委員長は廃止され、埼玉支部南埼玉郡部幹事部長の名称で郡長の妻がこれに任ぜられた。会の活動は、軍人慰問絵はがきの発送や、軍人遺族ならびに廃兵に対する優待員章の交付などがあり、靖国神社の大祭や、婦人会総会に招待してその接待に努めたりした。なお総会には、そのつど浜離宮・新宿御苑・各名士の庭園拝観、ならびに上野博物館や同動物園等の参観が行われたが、浜離宮などの拝観は、佩有功章者や婦人会職員に限られていた。
このほか明治四十四年の台湾出兵者に対し、盛んに慰問袋を発送したが、後には輸送中損傷のおそれか多いとして、慰問袋一個の代金を二五銭と定め、慰問袋のかわりに現金を募集した。