農事改良指導

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明治三十六年十月十六日に農商務大臣は全国の農会に「農事の改良増殖に関する諭達」一四項目を指令した。その内容は、(一)米麦種子の塩水選、(二)麦黒穂の予防、(三)短冊形共同苗代、(四)通し苗代の廃止、(五)稲苗の正条植、(六)重要作物・果樹・蚕種等良種の繁殖、(七)良種牧草の栽培、(八)夏秋蚕用桑園の特設、(九)堆肥の改良、(十)良種農具の普及、(十一)牛馬耕の実施、(十二)家禽の飼育、(十三)耕地整理、(十四)産業組合の設立、である。

 (一)~(五)の実行については市町村農会がおこない、道府県農会は実施上の援助を与えるが、ただし府県で命令をもって実施している項目は重複しないでもよい、としている。府県が命令をもって実施している項目とは、当時相当数の府県では地主と米穀商の要求によって米作改良の命令がでており、その必須項目として短冊形苗代、稲苗の正条植等が強制的におこなわれていたことをさす。

 農会については埼玉県では県農会と南埼玉郡農会が三十一年に創立されていたが、三十三年の農会法により国の農政の一環にくみこまれた。また三十三年四月には県農事試験場も設置されている。さらに三十四年には県下の町村や郡・県農会で系統的な稲模範作共進会が開催され農事改良を推進する気運が醸成されつつあった。

 明治三十六年十一月二十八日に、南埼玉郡久喜町長と越ヶ谷町長職務代理者が連名で県に稟請した農事改良にかかわる建議書は、こうした情勢をよく表現している。建議書は翌三十七年より県令をもって短冊形苗代と害虫駆除の励行を求めるものであった。その理由として「農事改良の急務であることは言を俟たぬが、埼玉県は近隣の府県に比較してなお遅れている。これは県当局者の指導がよくないというより積年の旧習を変えるのが困難であるといって傍観しているからである。本年は稲作の出来がよいと予想されていたにもかかわらず収獲の結果は悪かった。害虫の禍害も当然である。この改良の手段として稲作の技術改良が当然必要とされるが、本県の技術改良の導入、普及は極めて幼稚である。農民や農会が自発的に稲作の技術改良を行なうのをまっていては百年河清を俟つのと同様である。農事改良は急を要する。以上は〝執行力アル命令〟、つまり権力による強制によってこれを行なう必要がある。茨城県や千葉県は農事改良は本県よりも進歩しており農会の活動も適切であるが、県当局者はこれに甘んぜず、県令による稲作の技術改良を行なおうとしている。我々の見聞するところでは、千葉県では昨年、県郡の吏員を町村に巡回させ苗代短冊形によらないものは直ちにこれを踏破改造させ告発処分をおこなった。このように行政の要とは時機をみて弊を改め進歩するところにあり、本県においてもただ断行あるのみ」とのべている。

 日露開戦直後の明治三十七年二月十日、臨時地方長官会議で農商務大臣は、戦争にともない満州からの大豆粕肥料や北海道からの鯡肥料が途絶・遅延したり、あるいはまた召集による農村労働力の不足によってその経営の悪化が予測されるが、農業生産の増大は緊急事であるので、前年示した一四項目に及ぶ農事改良をぜひ実施するよう要求した。このため全国農事会と各府県農会は、積極的な農事改良に取りくむことになった。農事改良が遅滞していると評された埼玉県でも、県農会をはじめ、郡・町・村農会は各役場と協力し、この頃から精力的に農事改良に取りくんでいった。