戦後の農事改良

298~299 / 1164ページ

明治三十七年十二月、南埼玉郡役所は管下町村に対し戦時農事改良の推進を督励するとともに、緑肥の普及と短冊形苗代を中心とした稲作改良の実施を通達した。この内容の一つは、連年の豊作による地力の減耗を避けるため肥料供給に力を入れなければならないが、大豆粕等の輸入見込みがないので緑肥栽培により肥料供給を行なうこと、その一つは共同苗代、塩水選種法、正条植、害虫駆除等を適当な方法で実施することなどであった。しかし実際にこれらの農事改良が一定の成果を収めるのは数年後のことである。

 肥料需用は明治三十年代、とくに日露戦後に急増した。大豆粕と共に硫酸アンモニア等の化学肥料の増大にともない粗製乱造の肥料がはびこったため、明治四十一年に肥料取締法が改正され行政指導が進められた。同年十二月越ヶ谷町天嶽寺をはじめ岩槻、粕壁、久喜町で県技師指導による肥料知識普及の講話会が開かれたが、これは肥料商や一般農業者が対象者であった。また当時全国的にイモチ病が多発し、この対策として、窒素肥料を控え、緑肥栽培を推進するよう町村に督励している。病虫害予防に関しては行政指導も度々おこなわれているが当時の対策はまだ不十分であって、窒素肥料を控えるほか、誘因の除去、耐病性品種の採用など消極的な方法しか講ぜられなかった。

 稲作の技術改良の一つ短冊形苗代も虫害防除の手段として考案されたが、これは労働力節減と品種の統一をねらい、農家の共同作業として奨励された。しかし共同苗代の普及は容易に浸透しなかったようである。

 短冊形苗代は、その持主の姓名札を苗代現場に建てさせ、県吏や警察官立会のもとに厳密な検査が行われた。その結果、たとえば明治四十四年度の南埼玉郡において、苗代の改作を命ぜられた者は五四二人、〝戒告〟をうけた者が一九一人、科料に処せられた者が二名を数える。短冊形苗代の実施にあたっては、まだ一般農民はその必要を理解せず、その場かぎりの形式的な作業を行なっていたようである。

 また塩水選種法は、従来の水選法より比重の大きな種籾を選び、苗生育の均整とその健全化をはかろうとしたものである。種籾の浸種期日も二十日前後から十日以内に短縮され、播種量も従来の十分の一に減らされている。これは栽植の密度が疎植となる効果をねらったものである。だがこの塩水選種法の普及もはじめはきわめて低かった。たとえば桜井村明治四十五年度における塩水選実施戸数は五〇戸で、農家戸数三三〇戸に対して一五%に過ぎなかった。

 ともかく日露戦争開始後から盛んになる農事改良にともない、牛馬耕伝習などの技術指導や物産品評会などもしきりに行われたが、また産業組合の結成や耕地整理の奨励などの行政指導が積極的に進められた。これらの指導は府県庁の命令という権力による強制によったが、とくに病虫害の駆除については厳しい措置がとられた。すなわちすべての農民は害虫の予防や駆除の義務を課せられたが、これに応じない場合は、農作物の焼却を命ぜられ、罰金や拘留の処分をうけることもあった。