日露戦争の終結と同時に、一時中止あるいは延期されていた市町村の事業は、地方自治体の発展と国政委任事務の増加により、むしろ拡充の必要に迫られた。明治四十年四月地方長官会議で原敬内相は「今日ハ所謂戦後経営ヲ計画スベキ時機ニシテ、政治経済孰レノ方面ニ於テモ相当ノ設備ヲ為シ刷新ヲ施スノ必要アルコト多言ヲ要セズ」と訓示を与えている。
日露戦争中の非常特別税法によって附加税や戸数割等の徴収が制限されていたうえに、公債の増発によって地方財政は戦後も窮状にあった。しかし政府は地方税が増徴されることによって国家の財政充実が犯される危惧をいだき、非常特別税の地方税制限については撤廃しようとしなかった。そして戦時中の地方税制限を明治四十一年三月三十日の「地方税制限ニ関スル法律」で受けつぎ、附加税の制限を若干緩和し、制限外課税も一定限度で容認した。翌四月の地方長官会議で府県市町村の公債への監督強化、滞納処分の励行、協議費の整理と抑制、戸数割・戸別割の改善を勧奨した。四十三、四十四年の地方税制限の改正により市町村の地租附加税は宅地が一〇〇分の九、田畑等一〇〇分の二一、営業税附加税一〇〇分の一五、所得税附加税一〇〇分の一五となったが、市町村においては零細な税源をあさる結果となり、重課と負担不均衡をもたらし地方債も増加した。そして国税附加税と並行的に戸数割も増加する。第85表の明治四十年度と四十五年度の南埼玉郡町村税は四円八〇銭五厘から八円十五銭二厘と倍増に近い数字をしめす。越谷市域の明治三十九年度と四十四年度の町村主要歳入額中町村税の推移は二万四五一九円余から二万七五七八円余、南埼玉郡合計では九万九七七〇円余から一一万五一九一円余と増加しているのである。第86表の増林村の明治四十年度から四十二、四十四年度の村税も四十年度から四十二年度にかけては歳入合計額共に急増している。しかし四十四年度の村税収入は四十二年度のほぼ半額に落ちこんでおり、この分は寄附金起債、基本財産繰入によって補っている。地方税制限下の零細な町村税源と国税負担の増大にもかかわらず、町村は町村主要歳出額でみるように、国政委任事務増加による役場費、会議費の増大、戦時中抑制されていた土木費、衛生費と従前から町村財政を圧迫していた小学校教育費の増大によって財政膨張をきたすのである。しかし乏しい税源の大半は国税・県税として徴収されており、必然的に基本財産の予算への繰入や起債にあおがざるを得なくなるという町村財政の不健全化をもたらしている。当時の越谷市域の町村はほとんどが町村公債を起債しており、またそれが財政を圧迫する一因にもなっているのである。また町村民にとっては国税・県税・町村税の増徴は過重な負担となっておおいかぶさってきたが、生活の場たる町村で費消されない国税がその六〇%前後を占めており、きわめて中央集権的な税制であったといえる。
年次 | 役場費 | 会議費 | 教育費 | 衛生費 | 諸税及負担費 | 歳出合計 |
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円 | 円 | 円 | 円 | 円 | 円 | |
明治34 | 940.599 | 4.47 | 961.045 | 283.685 | 104.358 | 2,294.157 |
〃 36 | 1,228.716 | 14.06 | 946.807 | 106.231 | 336.40 | 2,708.814 |
〃 38 | 1,062.900 | 6.42 | 820.617 | 22.22 | 264.83 | 2,216.987 |
〃 40 | 1,042.172 | 9.3 | 1,046.889 | 56.483 | 147.619 | 2,405.463 |
〃 42 | 1,276.358 | 21.02 | 2,623.063 | 262.29 | 202.48 | 4,541.391 |
〃 44 | 1,002.05 | 8.25 | 1,906.936 | 109.74 | 69.849 | 3,667.365 |
『越谷市史(六)史料(四)』358~61頁