町村の様相

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明治二十二年四月一日、新しい町村制が実施されると、早速、町村内の体制づくりがすすめられた。町村会議員がえらばれ、町村長を選出し、役場吏員も決定されて町村の議決機関と執行機関が整えられた。町村理事者を選出した町村会では、ひきつづき町村条例が決定され、新年度の予算も編成されて、町村の事務体制も法的にも財政的にも整えられている。

 ちょうど、このような体制が整備したころをみはからうかのように、埼玉県知事吉田清英は県下町村の巡回をこころみている。十月三日、越ヶ谷町にもやって来た知事は、越ヶ谷・大沢町組合役場で町長はじめ町会議員に訓示し、町長島根荘三より町務概況書をうけとり、ついで大沢町大松屋に召集されていた近在の各村長より村内情況の報告をうけている。当時の町村民の情況、町村費、学校、衛生事情などが知事の諮問の中心であったらしく、町村長の答弁もこの問題に集中していた。

 このとき、風災による生活の貧困化(出羽村長)、米価変動にともなう不景気による中農以上の農家の土地喪失(川柳村長)、風災・米価変動の影響を脱しつつある情況(越ヶ谷・大沢町長)なども報告され、生活安定のために積立てられる勤勉貯蓄が継続されている(大沢町)場合もあるが、不景気のため廃絶(川柳村、出羽村)する情況も生まれており、貯蓄による支出増加をきらう風潮が一般化したなどという報告があった。

 大松屋へはこのほか蒲生、大相模、増林、新方、桜井、大袋、荻島村長が出席していたが、これら村々もほぼ前出の町村と同じような情況下にあったようである。出羽村では町村費は増大したが、地方税の軽減部分と相殺すれば、納税全体からは軽減されており、「議員及吏員ノ選挙ニ関シテモ平穏ニシテ競争ヲ生ゼシコトナシ」(越谷市史(五)四二二頁)といわれている。教育の普及にともなう学資の捻出には各町村とも注意され、授業料の増額も行われている(出羽村、八幡村、越ヶ谷町)。越ヶ谷・大沢町の就学率は三〇%、ほか村々はさらに低率と思われるが、全国的な就学状況からみても低くなっている。衛生については下水・料水飲の改良(越ヶ谷・大沢町、武里村)が実施されたという。そのほかの村々でも同様であった。南埼玉郡では四一町村のうち三〇ヵ村が改良したとされている。

 当日、到着早々の知事に、越ヶ谷町会議員は越ヶ谷・大沢組合町の分離意見書を提出したが、回答は当夜、宿泊所の大松屋で伝えられた。組合町の利害得失を経験したうえで、本来は一町として合併すべきにもかかわらず、経験もしないうちに分離を主張するのは是認しえない、という回答である。知事の意向を知った町会議員は差戻(さしもど)された意見書をもって退出したが、このときすでに分離問題は東京控訴院に出訴中であった。これについては第二節で後述する。