町村長と助役

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このような知事による郡内町村の巡視に先立って、南埼玉郡長は郡治情況の報告書を提出していたが、そのなかで「町村長助役人物ノ適否」に関して次のように述べている。従来、公選による戸長制度であったときには、投票により多数の小民の意にそう戸長がえらばれ、不適当な人物が往々にして当選したが、町村制の施行によって町村長・助役選挙は「町村会ノ行フ如ナルヲ以テ、多数小民ニ圧セラルゝノ弊一掃」(越谷市史(五)四一一頁)され、適当な人物がえらばれているが、これは法律の恵与と人智の進歩とに起因する、としている。つまり、町村長・助役(収入役も)とも町村会議員が選挙するので適当な人物が得られるとする考え方が述べられ、従来の公選制を否定的に評価しているのである。

 すでに第三章第二節(一一一頁以下)で述べたように、町村会議員はその町村で地租を納め、もしくは直接国税二円以上を納めるものが「公民」として選挙権をもち、それらの中から選ばれる。この有権者の資格はすでに下層の村びとたちはふるい落されている。くわえて議員は二級にわけられ、一級は有権者のうち村税納入額の多いもの、二級はそれ以外のものより、それぞれ半数をえらんだから、必然的に、町村会は地主議会の性格をもつように法的に決められていたのである。これらの人びとにより町村長をはじめとする役場吏員が選出され、のちには郡会議員も選出され、かつ町村長および郡会議員が県会・国会議員選出の中核となったことから、地方・中央を問わずに政治は地主層によって動かされるようになる。このような変化は、自由民権運動によって農村の深部へ浸透しかけた政治運動を絶ちきり、地主層に局限しようとするもので、町村制のもつ国家行政の代行的性格とともに、日本の近代化を、地主層を基盤にして行政的に仕上げる体制を完成させたともいわれている。郡長の報告が公選制を否定し、制限的な複選制を肯定的に評価したことにもそれが表われている。

 明治二十二年四月の町村制実施にともなって選出された町村長は、各村とも五月中には任命されている。新方村のみが半年遅れであるのは、合併にともなう内紛が関係しているように思われる。当時えらばれた町村長は第三章第九節に示されているので、明治二十五年以降の町村長・助役の一覧は巻末に表示した。