行政事務会の成立

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埼玉県では町村役場の事務能率をあげるため、町村制実施とともに役場吏員による行政事務会を設置している。南埼玉郡では郡内を北部、中部、南部にわけていたらしく、市域村々のうち荻島、大袋、桜井、新方村は中部事務会に所属していた。この会の目的は、「町村行政事務ノ便否ヲ商議シ、務メテ部内公衆ノ幸福ヲ増進」(明治三十年「参考書綴」)することであり、監督官庁の法律命令に意見を提起することもあった。

 中部事務会は年四回、粕壁町か岩槻町で交互に開会されることになっている。明治二十三年一月の事務会では町村役場処務規則が討議されているが、これによると役場事務は、

  第一分掌 庶務、議事、兵事、学務、農商

  第二分掌 税務、土木、衛生

  第三分掌 会計

とわかれ、各分掌に主任書記をおき、第三分掌は収入役が担当することとし、それぞれの分掌すべき諸帳簿まで検討されたようである。当時各村の書記は一人ないし二人であったから、事務量の増加につれて雇員をやとうケースがふえ、かつ諸事務を集中的に担当するようになっている。

 このような行政事務会は明治三十五年になると、南埼玉郡町村行政協議会として町村長によって組織され、年二回、郡役所で開会されるようになった。この会は郡吏が会長となっており、討議はまったく行政事務に限られている。三十五年十月の会合では町村税未納矯風の件や出納検査、県税徴収、水利組合組織などの郡吏からの諮問に答える一方、町村長からは学齢児童出入寄留者調査、欠席者の督責の件などの取扱いに関する方針の統一が求められていた。