八条領村々の治本会

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前記の自治会は明治四十年頃まで活躍したが、その後は行政事務会と自治会的な性格を併せもつ治本会、新方領行政事務会、天領自治会などに発展的に解消したように思われる。明治四十一年には各地で準備されるが、その一つ「治本会」は最初、八条領村治研究会または自治研究会とも称し、八条領村々を組織したものであった。この年八月にその第一回が開かれている。

 治本会規則によれば、その目的は「政治党派ノ外ニ立チ、地理的関係ノ範囲ニ在リテ加盟自治体ノ交誼ヲ厚クシ、兼テ相互間ノ利害ヲ研究」(「明治四十一年「治本会々議録」)するにあるという。加盟自治体の事業の発展、法令または施政上の利害、加盟町村または町村間に生ずる問題などの研究機関をめざしていた。単に行政事務の連絡だけでなく、地域的な町村連合の利害を代表することもありえたのである。治本会には大相模、蒲生、川柳、八幡、八条、潮止村のほか新方領に属する増林村も加盟していた。治本会決議の数例を示すと、四十一年八月二十九日、害鳥駆除願、同九月三十日、赤十字社分区経費増額請求書、同十月二十二日、土地台帳取扱に関する請願、同十一月二十一日、教員出張につき建言、武徳会経費に関する意見書、同十二月二十三日、徴兵署設置の請願決議、というように毎月一回、県ないし郡役所への要望を決議している。これらはいずれも町村経済の自立を意図しており、町村事務の増大や諸経費の増大に対する自衛のための要望であった。たとえば教員出張に関する建言は、出張がやたらに多く町村経済に影響するので緊急の出張にのみ限られたいとするもので、この問題をめぐっての対立は後述(第六節)のごとく郡長排斥事件へと発展するのである。形式的な自治制も、その形式さえもが侵されようとするとき反発に転化したのである。