明治二十一年十月、新町村の造成に際し南埼玉郡長は知事あて申請のなかで次のごとく述べている。すなわち新町の造成は、まず郡内の戸長のうち地理民情に通ずるもの一〇余名を顧問とし、郡役所吏員と協議して新町村の区域を仮に定め、ついで全郡の戸長を会して諮問のうえ仮区域の得失便否を討議させ、その後これら戸長より所轄内の議員および惣代人、重立地主などへ諮問することによって確定するというのである。
その結果、郡内は四一町村となった。このうち一九ヵ村は戸長役場区域がそのまま新町村となり、その他は新たに町村の区域が定められている。
この戸長役場区域の一九ヵ村には、市域村々では、花田・東小林が分離した新方村と、花田・東小林を合併した増林村、それに越ヶ谷・大沢組合町を除く村々がこの中に含まれている。新方・増林村旧村の離合は、それほど支障なく行われたと思われるが、越ヶ谷・大沢町の合併は、すでに第三章九節で述べたように困難をきわめた。郡長も知事あてに「就中、越ヶ谷、栢間、久喜、岡泉、飯塚ノ五町村ハ到底彼我意見ノ投合セサルモノ」(明治二十二年「県治部」県立文書館)と述べている。
いま、郡役所と戸長層との間で決定された越ヶ谷町合併の事業をみると第91表のようになる。「民情ニ於テ故障」あるものの、独立町とすれば町財政負担が困難なところから「自治ノ目的」を達するために合併して越ヶ谷町を唱えるよう決められた。これに対する越ヶ谷宿および大沢町の議員・惣代人の意見については、すでに検討したように、町名問題にからんで過去の対立がうかびあがっており、容易に合併が進む気配はなかった。そこで最終的な判断をまかせられた県では、結局、両宿町を独立したまま、組合町とする妥協策がとられることになった。
新町村名 | 旧町村名 | 区域 | 人口 | 戸数 | |||||||
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田 | 畑 | 宅 | 池沼 | 山林 | 原野 | 雑種地 | 合計 | ||||
越ヶ谷町 | 越ヶ谷宿 | 一四三・四一 | 六〇・三三 | 二三・二六 | 〇 | 四七 | 二四 | 四・二五 | 二三一・九六 | 三、一五三 | 六一六 |
大沢町 | 九八・四九 | 六七・八八 | 二〇・九一 | 一・八七 | 二一 | 三二 | 二二・六五 | 二一二・三三 | 二、一五八 | 四二四 | |
計 | 二四一・九〇 | 一二八・二二 | 四四・一七 | 一・八七 | 六八 | 五六 | 二六・九〇 | 四四四・二九 | 五、三一一 | 一、〇四〇 |
(単位=町,四捨五入)
新町村名 | 旧町村名 | 資力 | |||||||
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諸税並町村費 | 町村有財産 | 負債 | |||||||
国税 | 地方税 | 町村費 | 現金 | 公債 | 土地 | 建物 | 金穀 | ||
越ヶ谷町 | 越ヶ谷宿 | 四、六三九・七四 | 三、二〇七・八五 | 六五二・四三 | 〇 | 一二 | 〇 | ||
大沢町 | 二、三八九・五一 | 一、四〇八・九〇 | 五四七・三九 | 三〇三・四二 | 八坪 | ||||
計 | 七、〇二九・二五 | 四、六一六・七五 | 一、一九九・八二 | 三〇三・四二 | 〇 | 一二 | 八坪 | 〇 |
(単位=円,四捨五入)
一、合併ヲ要スル事由
個々独立セシメハ資力微弱ニシテ自治ノ目的ヲ達スル能ハス、且其地勢タル元荒川ヲ以テ界トシ、些ニ一橋ヲ隔テ連担櫛比市街ノ体裁ヲナセリ、但民情ニ於テ故障ナシトセス
一、沿革
往古ハ越ヶ谷一宿タリト云、爾来各独立宿町タリ
一、町村吏員及議員惣代人等ノ答申
両宿町吏員及議員惣代人ノ意見ヲ添付セリ
一、新町名選定の事由
越ヶ谷宿ノ名遠邇ニ著名ナルヲ以テ越ヶ谷町ト称スルナリ
一、役場位置
越ヶ谷町トス