組合分離の訴願

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そのまえに、組合町成立早々におこった組合分離問題についてみておこう。明治二十二年五月、町会議員および組合会議員が選出されて町長・助役が選任されると、役場の位置をどこに設定するかが問題となった。二十九日に開かれた議員協議会において、越ヶ谷町は従前の越ヶ谷宿戸長役場を四年間組合町役場とすることを主張したが、大沢町側は越ヶ谷戸長役場では遠くなるので、両町中間に位置する大橋際へ新築したい、もし越ヶ谷側で適当な新築場所がないときは、大沢町側で新築すると主張した。このため、三十一日の組合会では双方の意見が衝突し、ついに越ヶ谷町会議員は組合の分離を決定している。六月に入り、郡役所からこのことを県庁へ訴願したが認められず、ついに七月十日には東京控訴院に上告した。この訴願理由によると、「恰モ戦勝者ノ如キ気込ヲ以テ相対スル」大沢町とは人情気風も相反し、一緒に町を構成することはできないといっている。

 さらに十月三日、町村事務視察のため越ヶ谷町に来た県知事へも、分離に関する意見書を提出しているが、分離願いの理由は、住民の人情や気風の違いのほか、役場位置に関する両町の対立、それに越ヶ谷町会の公民権に関する制限特免を、大沢町出身の島根町長が否認したことなどを挙げている。しかし、県知事は十月十九日「本訴ハ町村制中出訴スベキノ明文無之ニ付、受理スルノ限ニ無之、依テ内閣ノ裁可ヲ経、訴状ヲ却下」(明治二十二年「組合会往復書類」)した。