組合町会の実態

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このような分離騒ぎのさなか、組合町条例が準備されたが、訴願が却下されてからはこの審議も軌道にのった。この組合町条例は、国税・地方税・町村費滞納に関する督促手数料などをきめたものであったが、同時に「越ヶ谷町外一ヶ町組合会議議事細則」なども定められている(明治二十二年「越ヶ谷町外一ヶ町組合会議関係書類」)。ついで組合町会で行われた主な決議をみると、二十三年八月には陸羽道の馬車鉄道布設については故障ない旨の決議、二十五年六月には小学校を越ヶ谷町と大沢町の二ヵ所に設け、その費用は各町限りの負担とすることなどを申し合わせている。また同年十二月には「学務委員設置ニ関スル決議」がなされ、これにもとづき、各町に一人あて学務委員が選ばれている。

 この間、組合町の歳入出予算・決算や吏員の交代に関してはそのつど会議が開かれていたが、三十年には伝染病の流行とともに予防委員を設けることが提案され、この委員に大塚善兵衛・黒田倉吉が任ぜられた。この頃より各町費や組合町費とも滞納者が増加したため、督促手続などが決められている。三十二年における松沢久次郎町長より平岡広代理町長への交代もこの納税問題が大きかったらしい。とくに県税は督促がきびしかったので、納入するが、町税は前年分の未納も処理できないありさまで、赴任早々の町長代理は、組合会議員にこの点の注意を喚起していた。

 この年、伝染病予防費の賦課をめぐり越ヶ谷・大沢町議員が衝突したらしく、越ヶ谷町議員は全員辞職している。大塚助役の辞任もこの時である。再選挙により選出された議員も組合町会をボイコットしたが、この問題は翌三十三年にはいっても尾を引き、この年の歳入出予算は結局、郡参事会で代議されている。組合町会は三十四年も同様に空転を繰り返し、郡書記の町長代理が予算原案をつくり、郡長はじめ郡参事会がこれを決定した。町会は事実上の機能を停止したのである。

 このような組合会が正常に戻るのは、三十四年五月町村会議員の改選後である。この間、両町の対立も手伝って、町役場の事務は「錯雑ニ錯雑ヲ極メ町税ノ不納ハ積テ一千余円ニ上リ、随テ支出ノ未払ニ属スルモノ少ナカラズ」とあり、さらに、役場「吏員ノ惰勤ト無責任トハ実ニ驚クベキモノ」(明治二十二―三十五年「越ヶ谷・大沢町組合町歳入出予算表編冊」)であったと記録されている。

郡役所報告書類