明治三十五年十月一日より越ヶ谷町・大沢町は自立し、それぞれ役場を分立した。越ヶ谷町は東町裏四三四三番地、観音堂を仮役場とし、大沢町は字町並三七六三番地に役場がおかれた。越ヶ谷町では、佐川重作がひき続き町長代理をつとめ、大沢町では松沢久次郎が町長代理となっており、同年十月三十一日には旧役場の事務諸帳簿の引継ぎはすべて完了している。
越ヶ谷町では、この間、町債を起して小学校舎新築に着手していたが、四月新築完成、開校式も挙行されたのち、この問題に不正ありとして町内紛擾が起っている。この事件は八月に至って結着をみたが、十月の新町独立の後もこの問題は尾をひいたようである。この年十二月には未納町税の督促を行うとともに、町債のうち一〇〇〇円を償還することを決め、翌三十六年一月には元利支払を終えた。その後四月、大沢橋修繕工事が始まったが、その設計には釣橋工事とするよう運動が行われている。三十七年一月、町会では新町長に小泉市右衛門、助役に大塚善兵衛を選出したが、町民に対しては納税の義務と貧者の救恤、それに細民の抗争を慎むこと、教育の振興をはかることなどを希望していた。佐川の在職約四年間は、小学校を新築し、高等小学校の増築を完成させるなど、もっぱら教育事業の改良発達を心がけ、かつ町費未納を整理して、若干の貯蓄金を残すまでになっている。しかも三十五年以降、町会では罹災救助資金・町基本財産・学校基本財産の蓄積を行い、合計三〇〇円の貯蓄も始めていた。越ヶ谷町の行政は、この頃よりやや正常に復したといえる。
明治三十九年六月、越ヶ谷町役場は、本町字西町裏一五八四番地越ヶ谷尋常小学校構内に新築されて移転した。四十年一月、町長は有滝政之助にかわり、四十二年には大塚善兵衛が町長に、有滝七蔵が助役となった。