憲法発布

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明治二十二年二月十一日、「大日本帝国憲法」が公布された。天皇が皇祖皇宗に報告した憲法を、神武天皇の即位の日である紀元節の日をえらび、天皇みずから大元帥の軍服を着て、内閣総理大臣に授けるという形式をとって発布されている。この形式に憲法の性格が集約されていた。

 南埼玉郡では、憲法発布式挙行については各戸で国旗を掲揚し、かつ各村とも村の鎮守社へ旗幟をたて酒食を供えるように通達している。憲法発布の詔勅が皇祖皇宗の肇国は臣民の祖先の協力にあったことを強調したとき、村々の産土神(うぶすながみ)への奉仕を説くことは、そのまま天皇への忠誠を求めることに通じていた。はたして市域の村々はどのようにうけとめたかは不明である。発布後、これに対してあらわれた最初の反応は憲法演説会の開催であった。明治二十二年四月五日付の朝野新聞に、次のような広告がのっている。

    政治学講談会

  四月七日(日曜日)正午十二時より

  南埼玉郡西方村字大相模の大聖寺に於て

   演題  大日本国憲法

   講師  宇川盛三郎君

     埼玉県 北・中葛飾南埼玉 三郡倶楽部幹事

すでに三郡倶楽部なるものが結成されており、これが中心となって大聖寺に憲法の講談会を開くというものである。