三郡倶楽部

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半年前の同じ新聞によれば、「埼玉県南埼玉・北葛飾・北足立各郡の有志者には地方制度の研究会を開き、東京より角田真平を招き、草加・越ヶ谷両所にて講演を聴きたるよしにて、人民も大に気込み居るよし」と報道されており、三郡倶楽部は町村制実施による越谷地方に開設された町村制研究会の後身であることが判明する。このときの講師角田真平は改進党の中心人物の一人である。自由民権運動の開始以来、党是に地方自治をかかげる改進党が、地方制度研究会を通じて越谷中心の三郡に、政治結社を組織化していたのである。倶楽部員や具体的な活動は不明である。

 憲法という国家の基本法が定まると、政府は一層の対外的自主をおしすすめる努力をかたむけることになる。当時、もっともさしせまった課題は条約改正の問題であった。ときの外相大隈重信は、鹿鳴館時代をうみ出し極端な欧化政策によりこの問題を解決しようとした井上馨外相にかわって、法権の強化をはかったが、外国人判事の任用をめぐって改進党以外の民権派や国権主義者から、つよい反対をうけることになった。大隈がかつて改進党の総裁であったことから、このとき改進党系の勢力は大隈を支持し、条約改正の断行をしばしば建白している。

 当時、県会副議長であった高橋荘右衛門が草加町長戸塚弥吉とともに、南埼玉郡もふくむ有志の総代として元老院に出頭し、条約改正の決行を建白したのは明治二十二年八月九日のことである。越ヶ谷でおこなわれた町村制研究会および憲法講談会の弁士宇川盛三郎は改進党系の人物で、高橋や井出庸造と親しかった。このままでゆけば改進党の地盤となったと思われる越ヶ谷が、自由党系にかわってゆくのは次のような事情と関連している。