川上参三郎

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全国を賛否のうずにまきこんだ条約改正問題は、結局、外相大隈が福岡県の国権主義の結社である玄洋社の社員来島恒喜に爆弾を投げられて負傷したため中止となった。このとき自害した来島の遺体を埋葬するのに骨をおったのが川上参三郎である。川上はこのころ越ヶ谷町で新聞売捌所をいとなんでいた大塚善兵衛と知りあい、大塚の協力で出羽村迎摂院で演説会を開いたのが縁で、二人の親交は深まっていた。この事件でも川上は大塚に協力をあおいだのである。埋葬の費用のなかった川上らは、浅草の栄盛舎より馬車を仕立てて夜通しかけ帰り、荻島村長川上治郎右衛門より五〇円の資金調達を大塚に依頼したのである(大塚善太郎「文章入門」附録)。この資金により、ようやく来島の墓も出来たという。

 川上参三郎は、大塚が仲介して資金を出させた川上治郎右衛門の三男で、明治三十九年の荻島村長川上田鶴之助の弟である。元治元年(一八六四)生れでこの明治二十二年には二五歳であった。早くから政治運動に身を投じ、家をとび出していたために直接親から金をもらうことができなかったのであろう。この年まで、彼は東京で旧自由党の壮士として活躍しており、九月に結成された壮士の団体である平民同盟会の有力メンバーであった。この平民同盟会が来島の遺体をひきとったのである。国権主義者と民権団体のとりあわせは奇妙であるが、もともと玄洋社は民権結社から出発しており、かつ当時一致して条約改正反対の運動を続けていたのである。平民同盟はのちに分裂していた旧自由党系の諸派を団結させ、立憲自由党を再興するのである。なお、壮士とは自由民権運動にともなって発生した職業的政治家であり、一般に乱れ髪の書生風俗で演歌をうたい歩き意気を示し、他党の演説を妨害したり、なかには金銭を強要するなど無頼的存在となった者もある。のちの院外団である。

 翌二十三年、川上は浦和に埼玉平民雑誌社を設立し、「埼玉平民雑誌」を発行する。荻村(荻島村の意)と号し健筆をふるったが、雑誌の性格はもちろん自由党系の主張誌であった。大塚善兵衛は創刊を祝って祝詞をおくったが、大塚の営む越ヶ谷町の協立舎はまた平民雑誌の売捌所でもあった。このとき埼玉平民社の社友となったものに尾崎麟之振、栗原永喜、細沼貞之助(大袋)、深野恒三郎、白鳥忠次郎、高崎三左衛門、高崎鉄之助、田川新三郎(桜井村)、中村悦蔵、井出庸造、関根宇一郎(出羽村)、有滝平太郎(越ヶ谷町)、島根荘三(大沢町)、中野文香(蒲生村)、浜野頼江(大相模村)、深井七郎兵衛(川柳村)、榎本健蔵(増林村)らがいる。いずれも市域の有力者である。井出自身もこの頃より自由党に接近する。川上と平民雑誌を通じてできたパイプは、のちこの地に自由党系の政治団体を組織する絆となる。この頃、大塚善兵衛、高崎鉄之助、小林信左衛門らを中心に「同和会」と称する政治結社がつくられたといわれている。