越谷地方の政情がこのように大きく転換しようとしていたとき、埼玉県会もまた一つの画期を迎えていた。
自由民権運動の時期から県会は改進党が牛耳っていた。明治二十年の第六期県会議員の半数改選に際しても、議員の政党別の色わけは改進党二六、自由党七、中立七名であり、南埼玉郡よりは大島寛爾、三須丈右衛門が当選し、合計四人の所属は改進党三、自由党一の割合で、改進党が優勢だったのである。これが次回の二十三年三月の第七期県議改選以後は第92表のようになる。
改選年月 | 政党 | 県会 | (内) 南埼玉 |
議員名 |
---|---|---|---|---|
明20.11 | 改進党 | 26 | 3 | 大島寛爾(自由) |
(第6期) | 自由党 | 7 | 1 | 三須丈右衛門(改進) |
中立 | 7 | (佐藤,細沼) | ||
明23.3 | 改進党 | 25 | 1 | 江原善兵衛(自由) |
(第7期) | 自由党 | 10 | 3 | 宮内翁助(自由) |
中立 | 5 | (大島,三須,原〔補〕) | ||
明25.2 | 改進党 | 22 | 1 | 高橋荘之丞(自由) |
(第8期) | 自由党 | 14 | 3 | 佐藤乾信(改進) |
中立 | 4 | (江原,宮内) | ||
明27.2 | 改進党 | 17 | 1 | 深井七郎兵衛(自由) |
(第9期) | 自由党 | 24 | 4 | 飯野喜四郎(自由) |
中立ほか | 3 | 大島寛爾(自由) | ||
(高橋,佐藤) |
表によれば、県会における自由党はあいかわらず少数であるものの、七期改選時には三名増加して一〇名となり、しかもその増加分は南埼玉郡で担っていたのである。郡では三人の改進党は一人に減じ、その分が自由党員となったからである。この傾向はより一層のちの県議選にもひきつがれてゆく。しかし、南埼玉郡における県会議員は大島、江原、宮内、高橋等の自由党議員はすべて岩槻以北の地域の選出であり、改進党員の原又右衛門(現春日部市武里)、佐藤乾信(現八潮市川崎)らは郡の南部より選出されていた。市域村々では深井七郎兵衛(川柳村)が出るまで県議は選出されておらず、両党の草刈場であり、この地の動向が全体の帰趨に関係していた。
このような最中、二十三年七月、第一回帝国議会の選挙が行われている。このとき埼玉県下は選挙区は五区にわけられており、南埼玉郡は北・中葛飾郡とともに第三区で二名の定員であった。政府は最初の衆議院選挙でもあるため、各区に政府に都合のよい吏党ともいうべき人物をたて選挙戦にのぞんでおり、第三区には政府の通信局長真中忠直、南埼玉郡長間中進之を立候補させ、結局、自由党、改進党を抑えきっている。まもなく間中進之が死亡し、次点の野口〓(自由党)が補欠当選した。
補欠当選にしても県会議員の改選にしても、国会・県会へ自由党員を送り出すことが出来た背景には二十三年八月中旬の大水害があった。水害の中心となった粕壁・岩槻地方は罹災補助金をめぐって県庁へ強訴したが、このとき知事と村民の間に立って補助金の増額を認めさせたのが南埼玉選出の県議大島寛爾であった。感激した罹災地の町村長および有志は身命を堵しても大島のために酬いたいとし、大島の申し出により自由党に加盟することになったという。「即座に数百名の党員が出来、此の年の干支に因むで之を庚寅倶楽部と命名」(青木平八「埼玉県政と政党史」)されている。このようなことがあって、南埼玉郡の自由党勢力は急速に増すのである。