明治二十五年、第二回総選挙が終って川柳村、大相模村、蒲生村の有志は民党事務所に四二円を献金し、その活躍を期待しており、十一月三日には越ヶ谷天嶽寺に野口・新井両代議士の慰労会を開いている。
これよりさきの七月七日には大宮公園で県下の自由党総会が開かれ、県下の自由党系の諸団体の提携が話し合われているが、南埼玉郡では庚寅団体が出席した。このとき市域村々より出席したのは川上参三郎のほか、大塚善兵衛、高崎鉄之助らである。
翌二十六年二月には粕壁町自助館において南埼玉郡有志者の懇親会が開かれ、郡内の意志統一がはかられており、同七月には熊谷町報恩寺に自由党埼玉県支部設置のための県下の自由主義者の大会が開かれている。市域村々よりは井出庸造、尾崎麟之振、島根荘三、深野恒三郎、川上治郎右衛門、中村悦蔵、関根宇一郎、中川元吉、川上参三郎らが出席した。この大会で第三区の評議員に、南埼玉郡南部では粕壁の練木市左衛門とともに中村悦蔵(出羽村)が選ばれている。全県的に統一された自由党は、その余勢をかって二十七年二月の県議選には多数の自由党員を当選させ、ついに県議会の勢力分野を自由党二四、改進党一七、国民協会(吏党)三と逆転してしまった。
このとき南埼玉郡では川柳村長深井七郎兵衛(自由党)が最高点で当選しており、郡内の分野も自由党四、改進党一となっている。もっとも深井はすでに二十六年六月の県議補欠選挙で県会議員になっていた。
翌二十七年三月の第三回衆院総選挙においても再び野口・新井を当選させている。二十九年二月の県議選では大袋村より尾崎麟之振(自由党)が当選し、ついに南埼玉郡は県議全員が自由党となってしまった。市域村々においても、憲法発布後一人もいなかった県会議員に深井、尾崎を同時に送り出すまでに成長していたのである。この関係は三十年代にも続き、三十二年にはかわって中村悦蔵が県会議員となる。越谷地方の政治勢力もこのころまでには基礎がためを完了し、「越ヶ谷団体」と通称されるまでになっていたようである。