〓世倶楽部

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越ヶ谷団体は成立の経過よりみれば、中心的役割を担当したのは川上参三郎であり、大塚善兵衛であった。これにくわえて三十年代には中村悦蔵が指導者として成長している。大塚は北葛飾郡堤郷村出身の大塚安兵衛の長男として安政二年(一八五五)越ヶ谷宿に生まれ、明治二十二年には三四歳であった。二十九年には越ヶ谷・大沢町組合の助役、四十二年に町長になる。また、その長男善太郎は「則鳴」と号し、川上参三郎の経営する「埼玉新報」の記者であった。大塚善太郎は同紙三八三号上に、自己の生立ちについて「余年十八にして大島淵黙の許に食客たり、転じて山田天籟の門に游び、天籟先生長崎師範学校に赴任するに及んで新井啓一郎、根岸貞一郎等の門に更る/\弾鋏の人となる。而して其の間、常に川上荻村の指導を受く」と述べている。善兵衛・善太郎とも自由党の人脈に連なっていた。

 中村悦蔵は出羽村大間野の出身で、東京法学院に法律を学び、明治二十三年に帰省したとき二一歳で自由党に入党している。のち郡会議員を経て県会議員となり、三十六年には県会副議長となっている。ときに三四歳の若さであった。このほか長老的存在として井出庸造がいた。彼らを中心に三十五年ごろ越ヶ谷町新石町三丁目に「〓世倶楽部」が設けられている。〓世とは世人をいましめるの意味である。最初、越ヶ谷団体の集会所名であったものがやがては団体名として用いられるようになったらしい。世人を政治的に目覚めさせる目的の結社ということであろうか。明治三十五年十一月一日、越ヶ谷天嶽寺において〓世倶楽部の開会式が挙行されている。倶楽部規約やメンバーなどは明らかでないが、これより大正二年に廃止されるまで、市域村々では〓世倶楽部を母体とする政治運動が展開されている。