第七回総選挙の様子

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越ヶ谷団体が形成され、やがて〓世倶楽部として政治結社を構成しようとしているとき、埼玉県ではどのような政治的な動きがあったであろうか。〓世倶楽部および市域周辺の政治団体とのかかわり合いもふくめて明らかにしておこう。

 越ヶ谷団体が〓世倶楽部名を正式呼称とする明治三十五年は、第七回衆議院総選挙の年であった。中央では伊藤博文内閣が北清事変の処置に対する責任から総辞職し、第一次の桂太郎内閣が成立し、軍部の勢力が増大する時期でもあった。当時、すでに立憲自由党は伊藤博文総裁のもとで政友会に編成三十三年八月)されていたから、海軍拡張の必要から政友会の支持を得たい政府は、政友会に便宜を与え他党を圧迫するようになる。選挙法も改正され、埼玉県内の総選挙区制は全県一区となり、定員は一名増し九名となった。これにより従来とかく壮士の活動を中心とする観のあった選挙は、金力本位の選挙に変化したといわれている。

 この総選挙に対する準備はすでに四月より始められ、五月一日には中村悦蔵は越ヶ谷団体の候補者に川上参三郎を推す旨を、同じ南埼玉郡の政友会の団体である北部の庚寅団体に申し入れている。五月には久喜町で庚寅団体と越ヶ谷団体の協議会が開かれ、また越ヶ谷町河内屋でも開かれたが調整つかず、六月にはいって他郡では候補が出そろっても南埼玉郡では統一されないまま選挙戦に突入した。庚寅団体は新井愛太郎を推し、越ヶ谷団体は川上参三郎を推し互いにゆずらなかったからである。