川上派が積極的に運動を開始したのは七月十九日である。もっぱら政見発表演説会を中心に進められ、演説会の前座は大塚善太郎がつとめ、川上は一人で一時間から三時間の演説を試みている。いずれも教育問題・財政問題が主であったが、詳しい内容はわからない。演説会の状況をみると、
七月 十九日 吉川町延命寺
二十五日 南埼玉郡新和村尾ヶ崎 光秀寺
二十六日 北葛飾郡幸松村八丁目 東福寺
二十七日 ? 聴衆五〇〇名
二十八日 越ヶ谷町久伊豆神社 聴衆五〇〇名
二十九日 南埼玉郡久喜町久喜本 金剛院 〃 四〇〇名
同 清久村中曾根 観音院 〃 一五〇名
三十日 同 菖蒲町 若林伝右衛門方 満場
八月 一日 蒲生村蒲生 清蔵院
二日 同 八幡村上馬場 観音寺
九日 新方村大杉 遠藤倉之助方
などのほか、北葛飾郡彦成村、三輪野江村、吉田村、遠くは大里郡深谷町にまで出張している。大選挙区制となり全県一区となったとはいえ、深谷町で政見発表会をもったほかはもっぱら旧三区の埼葛地区に重点がおかれていた。越ヶ谷町久伊豆神社の演説会について埼玉新報は、
一咋廿八日、越ヶ谷町久伊豆神社境内の太々座敷に於て開かれたり、同地は所謂越ヶ谷団体の根拠地なれば、有志者中には別に演説を開くの必要なしなど云ふものありしが、氏が各地の演説会へ態々傍聴に行きたる同町一二の人が、帰町して其の演説の状況及び趣意等を吹聴したりければ、是非とも一度其の説を聞かんと云ふもの多く、遂に其の希望に応ずることとなり開きたるものなりしと云ふ。されば其の傍聴者は時間前より詰めかけたり。第一席大塚善太郎氏は各候補者の批評を演説し、第二席は川上氏が登壇し例の経済問題を三時間許り演説せり。(中略)満場立錐の地なく邸前芝生の上に佇立したるもの多く聴衆無慮五百名
と報じている。総選挙は八月十日実施された。旧三区は六名の混戦であったため一人当選したのみで川上も落選した。最高得点二六九九票に対し川上の得票九三三票で、当選するためにはあと一〇〇票が必要であった。この総選挙は近代史上において越谷地方の人びとが自前の候補者で戦った最初にして最後の選挙であった。