当選した今井晃の県議当選祝賀会が、越ヶ谷町天芳楼で開かれたのは明治四十五年一月六日のことである。今井は祝賀会を主催した談笑会の会長であった。この会は幹事田口菊太郎(新和村、前大沢町助役)が開会の辞、祝賀を述べ、今井は答えて「談笑会員は超然政界を離れ、専ら文学的研究を以て本領」(埼玉新報四十五年一月九日付)とすべき年頭の所感を述べている。
この会は四十一、二年頃には成立していたと思われるが、越ヶ谷町付近一〇ヵ町村の学友をもって団結したもので、「社交的会合」といわれている。今井、田口を幹事に中村恵忠寿(桜井村)、長野保寿老(新方村)、中野俊助(蒲生村)らが参加しており、本来は文学的同好会から発展したものと思われる。今井は渋沢栄一の義兄尾高惇忠について漢学を修め、号を稼城とよび詩文をよくし、好んで東西哲学の書を読んだ人といわれるが、祝賀会での年頭所感はこのような彼の性格と、会の性格とが関連していたのである。
すでに三十七年八月に第一号が発行された文芸紙「あかつき」は、発行所が越ヶ谷町一四九番地の暁社におかれている。編集者は田口菊太郎(猶存、のち南埼玉倶楽部幹事長、県議)、森泉貞之助(梅廼舎、武里村長)、滝田光三(耳鉉、増林村か)らであり、賛助員は原又右衛門ら旧改進党系の憲政本党の人びとであった。「あかつき」は「清き娯楽と新しき思想の普及」を目的とした八ページ建の小月刊誌である。この文芸的同好グループが、その後の談笑会の母体となっている。誌友にはサンフランシスコ在留中の大塚善太郎も含まれていた。