県立中学設立問題

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市域村々に生起した政治的諸問題は、すべて第五節でみたごとき政治党派と関連して展開した。

埼玉県の中学問題は明治二十五年二月の臨時県会にさかのぼる。文部省より中学設立を勧告された県知事は、この県会に中学校建設費四万円余の支出を提案した。ちょうど一〇日前に実施された第二回総選挙において、知事を先頭とする郡長・警察の選挙干渉が行われた直後だっただけに、県議会内には知事に対する反感がつよく、この案は満場一致で否決された。その後三回ほどほうむられた設立案は、日清戦争後ようやく認められ、浦和と熊谷に設立されることになった。このとき意見として提出されていた川越、粕壁への設立案は、二十八年十一月通常県会で大論戦が展開されている。

 とくに北足立、秩父郡選出の進歩党議員が、粕壁は僻地で入学すべき生徒もいないと主張したため、一旦、粕壁中学案は否決されてしまった。これに対し、南埼玉郡選出の尾崎麟之振、深井七郎兵衛ら市域村々出身議員と、高橋荘之丞、飯野喜四郎ら自由党所属の県議は、共同して中学設立の建議案を提出し、僻地ではないことを具体的に示して反論した。深井はこの問題の取扱いに対する議長(進歩党)の責任を問い、この建議案を出席三四名のうち一八名で可決させた。そのため直ちに粕壁中学設立案が復活し、三十一年起工、三十二年完成が決定されている。

 この間、越ヶ谷からは中村悦蔵、粕壁から練木市左衛門らが県会にかけつけて応援し、県会内では熊谷町への県庁移転派たる大里・北埼玉の議員と取引きをおこなってようやく中学設立を可能としたのである。このため、粕壁中学設立に賛成してもらったかわりに、熊谷への県庁移転に賛成するはめとなり、移転建議案は可決され内務大臣あて提出されている。しかしこれは内務省で握りつぶしたため移転は実現していない。

 中学校敷地買上げに関しては周辺町村にまで広く寄付をあおいでいる。全額五〇〇〇円のうち、三〇〇〇円を粕壁町有志、四〇〇円は北葛飾郡、一一〇〇円を南埼玉郡四二ヵ町村より寄付することになっていた。南埼玉郡では郡内各町村を粕壁町よりの距離に応じて三等級にわけてこの額を負担している。市域村々は北部が二等村で三九円余、出羽、大相模、増林、川柳村が三等村で二六円余の割当となった。桜井村では一四人が二三円八一銭の寄金を行なっており、出羽村では分担寄付金は、地価割として村費で徴収したようである。