粕壁中学問題が進展していたころ、市域村々を含んで大きな問題となりつつあった事件に「竹流し」問題がある。
竹流しとは瓦曾根溜井の用排水の調節に独得の工夫をこらした堰の装置である。洪水の際は自然に破壊されて排水機能を円滑にするよう工夫されていた。毎年二、三回は出水で破壊されていたから、この復旧如何はつねに湛水により被害をうける上流村々と、洪水により被害をうける下流村々の利害の対立をまねく要素をはらんでいた。これにくわえ、明治三十一年、東武鉄道敷設にともなう大沢橋の架橋新設により問題は複雑となっている。
橋台が邪魔になって、より一層湛水被害をうけやすくなった上流村々は、早急に瓦曾根溜井の竹流し堰の改良工事を必要とするにいたっている。この工事設計および分担金で対立した上流村々は岩槻町・大沢町・越ヶ谷町をはじめ一六町村におよび、下流村々も大相模村、蒲生村をはじめ東京府下の村々まで一五ヵ町村におよんでいる。このほか、竹流し堰の工事如何では排水が多重にまわされる増林村および二郷半領村々は、独自に反対行動をとったから余計に複雑な動きとなった。工事および分担金に関する話し合いは数回重ねられたが、微妙な情勢のため結局、他の方法がとられることになった。
三十一年に発生した竹流し事件は、三十五年にいたってようやく仲裁人がはいって和解となっている。上流村々は井出庸造(出羽村)、尾崎麟之振(大袋村)、関根富士太郎(武里村)、大塚善兵衛(越ヶ谷町)らが代表委員となり、下流村々は田中三郎右衛門(潮止村)、豊田貞治(川柳村)、秋山吉重郎(大相模村)らが代表委員となって、大島寛爾、飯野喜四郎、高橋荘之丞らの県会議員の立会いで調停がおこなわれている。
竹流し工事の事実上の困難から、当面工事は見合わされ、水行の支障となっていた大沢橋の橋脚の減少が問題となって、次のような和解契約書がとりかわされている。(1)上流村々は竹流し堰の工事を見合せ、まず大沢橋の橋台五脚のうち二脚を撤去するよう請願すること。(2)下流村々はすでに提出していた大沢橋の据置願書を撤回し、上流村々の請願に同調し連署すること。(3)上流村々は下流村々に対し、橋脚撤去の示談金として金二五〇円を支払うこと、となっている。このような条件で和解は成立したが、根本的な問題は解決していなかったため、竹流し事件はその後もくり返し発生することになる。