明治四十一年八月十七日、越ヶ谷町役場に集合した越ヶ谷町のほか増林村・出羽村・蒲生村・桜井村・新方村・荻島村・大相模村・大沢町・大袋村・川柳村の二町九ヵ村の町村長および有志者は、連名でときの南埼玉郡長奥田栄之助の施政を次のように批判した。
(1)、教員の任免・出張に関し町村の実況を顧みないこと。
(2)、町村の経費も考慮せず無用の校長会議を開き、町村費を濫費したこと。
(3)、民力をかえりみず無謀の耕地整理を強行したこと。
(4)、繁文褥礼に失すること。
(5)、町村の自治権を濫りに侵害したこと。
つまり、失政を指摘し実行されつつあった施政に反対しようとしたのである。
奥田郡長はこの年三月、新方領耕地整理で悩んでいた神谷郡長にかわって、県の意向をくんで秩父郡長より栄転してきたかつての県官である。性格的にもそうであったらしいが、その帯びた任務から、いきおい官僚的体質をフルに発揮したらしく、当時のすべての言動に官僚臭さを出していばる人間を、「奥田式」と称する代名詞にまでなったという。このような郡長を、批判者の一人、蒲村居士(蒲生村居住者か)は「君が傲慢非礼なるは甞て秩父山中、鳥なき里に於て養成し来れる蝙蝠の性情を、無遠慮に発露したるもの」(埼玉新報四十一年十二月三日付)と評価している。