当時の報道によれば、主たる批判点は教育費問題、千間堀問題、耕地整理延期派に対する警察権力の導入問題の三点である。赴任早々の明治四十一年四月七日、郡下各町村長あてに出された小学校教員の増俸・任免に関する通達が、慣例を無視するものとして批判の口火となったが、これによると、従来、教員人事・俸給は町村経済を考えて町村長の意見をきいて決めた慣例を破り、郡長の専決に帰した点にある。教育の人事を通じての官僚的統制を徹底させたため、自治を主張する町村と衝突するにいたったのである。
また、耕地整理の開始にあたってその先決問題として用水および排水工事が必要となる。新方領の排水道たる千間堀工事に関し、下流の増林村に通告したのみで誠意を示さなかったため、工事の結果、通水がよくなり出水時には氾濫を恐れる同村の人びと一〇〇余名は、怒って県庁へ押しかけている。耕地整理地区内の延期派に対しては、いち早く警官を導入して毎日二〇余名が警察に喚問して、延期申請書の署名捺印が偽造されてはいないか取調べている。これをめぐって、桜井村民一五〇余名が郡庁へ押しかけている。
排水に対して、供給すべき末田大用水でも問題が発生した。末田用水に属する出羽・荻島・新和・越ヶ谷は新方領への分水により用水不足を心配し、郡長の態度の曖昧さに不信感をつのらせていた。
県の意をうけた耕地整理強行派の郡長と、漸進派の市域村民との対決は、四十二年三月三十一日の粕壁町天理教会における新方領耕地整理創業総会に極点に達している。この間、郡会では越ヶ谷団体を中心に郡長不信任が上提される直前に、飯野喜四郎、駒崎幸右衛門らの県議、川上参三郎らも加わっての仲裁により末田大用水組合(代表中村悦蔵、大塚善兵衛)と新方領耕地整理側(代表原又右衛門、尾崎麟之振)の話し合いがつき、結局、提出されないことになった。
こうして耕地整理事業を発足させた奥田郡長は、この年九月に比企郡長に転出した。当時も報道によれば「左遷」であったといわれているが、ここに耕地整理の至上命令を圧政的に強行した一人の郡長の、末路をみることができよう。彼もまた行政上の犠牲者の一人であった。