大挙上京

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これより入場を拒否された延期派五〇〇余名は、再び最勝院に集会し総会決議の無効を決議し、取消請願のため農商務省・内務省へ陳情のため、ただちに大挙上京を企てた。

 当日、事件の突発を恐れて出張した県警本部、岩槻、杉戸警察署長ほか越ヶ谷、久喜、大宮の三警察分署長はじめ、あわせて一〇〇余人の警官は、延期派の上京を越ヶ谷や草加の松原でくい止めようとしてただちに移動したが、約一八〇名が警官の目をのがれて上京している。千住、本所警察署は浅草、下谷、両国付近に警戒線をひいたが、それでも目的地の日比谷公園には四〇名が到達したという。もっとも、後日の報道では三〇〇名に達したとされている。ちょうどこのとき、大林御猟場への皇太子来場に対する御礼のため上京していた中村悦蔵、大塚善兵衛、中野文香、川島一郎、有滝政之助ら越ヶ谷団体の幹事にまで、下谷警察署では尾行をつけたという。

 もっとも、延期派上京農民は越ヶ谷団体幹事の宿泊する上野公園の都田屋旅館にも分宿し、川島一郎は延期派の滞京委員ともなっていることからみれば、延期派の大挙上京に越ヶ谷団体が応援していたとも見られる。警察の目をのがれて上京した村びとの指揮は中村悦蔵がとったともいわれている。延期派の幹部中村恵忠寿(桜井村)、根岸千仭(豊春村)らは農商務省に陳情したが、もともと埼玉県を督励してこの事業を推進させていた同省が、その中止を聞き入れるわけはなかった。

 この紛争を契機に、耕地整理が進行し、新方領は大部分が憲政本党系の地盤となってゆく。前述の四十四年県議選における大袋村長栗原永喜の立候補は、新方領の憲政本党=国民党の票を確定してゆく意味をもっていた。