授業料の廃止

355~358 / 1164ページ

明治十九年の小学校令の改正によって、教育費の受益者負担が原則とされ、教育を受ける者が授業料を負担するものと規定された。そして、学校維持はもっぱら授業料を第一次財源とし、不足分を町村費で補助することとなった。

 しかし、実情はどうであったか。埼玉県では授業料を月額五銭以上七五銭未満と定めて徴収することにしたが、当時の物価で米一升(一・八リットル)が五銭であり、この時点で新たに授業料を支払うことに大きな抵抗があり、就学率が伸びない大きな原因となった。

 つぎに、こうして徴収した授業料で果して学校の維持が出来たかというと、全県でも維持費の四〇%~六〇%程度で、残りは町村費でまかなっている。市域の大泊小学校(のちの桜井尋常小学校)の明治十九年下半期の学校維持費をみると、その割合はさらに低く、総額三〇四円八厘のうち授業料の負担は七二円で、二三・七%となっている。

 こうした授業料の学校維持費に占める割合は、二十五年二月、小学校令改正に伴って県が定めた町村立小学校授業料規則によって、授業料は従来生徒一人につき五銭以上七五銭以下であったのが、二銭以上三〇銭以下に減額されたため、さらに減少した。

 このとき、市域の町村が定めた尋常小学校の授業料を示すと第94表のとおりであるが、徴収の方法は、地租納入金額や総合所得を基準にして貧富の度合で金額を定める等級型がほとんどであった。学年を基準とする学年型はなく、両者を併用する併用型が桜井尋常小学校で用いられた。桜井尋常小学校では、この併用型の授業料徴収方法を採用するにあたって、県に提出した書類にその理由を「村内人民貧富隔絶セルヲ以テ到底均一ノ賦課ニ耐ヘ難ク、因テ開校以来土地所有ノ多寡ニ依リ等級ヲ設ケ徴収致来リ候処、単ニ貧富ノ等級ノミニ依リ徴収スルハ不公平ノ嫌アルヲ以テ今般貧富ト学年トヲ折衷シテ之ヲ徴収セントス」と述べている。表をみるとわかるように非常に細かく等級を分け、下級にいくほど金額差をなくしているなど困窮者への配慮がうかがえる。

第94表 明治25年における市域の学校の授業料一覧
等級 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 備考
学校名
共和学校 30 25 20 15 10 7 5 越ヶ谷町・大沢町組合立
出羽尋常小学校 25 22 20 18 16 14 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3
荻島 〃 25 22 19 16 13 11 9 7 6 5 2.5 地租100円以上は25銭,地租0円は2.5銭
増林 〃 25 22 20 17 15 13 10 9 8 7 6 5 4 3 2
大相模 〃 30 25 20 15 10 7.5 5 3 2
大袋 〃 25 20 18 16 13 10 7.5 5 2.5 地租200円以上は25銭,地租0円は2.5銭
新方 〃 15 13 12 9 7 5
蒲生 〃 27 25 23 21 19 17 15 13 11 9 7 5 3
川柳 〃 28 25 22 20 18 15 12 10 7 5
桜井尋常小学校 第一学年 20 15 10 8 6 2 学年別に格差をつけながら,しかも貧富による等級をつける併用型を採用。
第二学年 22 17 12 10 8 4 2
第三学年 24 19 14 12 10 6 4 2
第四学年 26 21 19 14 12 10 8 6 4 2
越ヶ谷町10ヵ村組合立越ヶ谷高等小学校 第1学年30銭,第2学年35銭,第3学年40銭,第4学年40銭 学年型

単位=銭,「越谷市教育のあゆみ」より

 しかし、依然として就学率の顕著な上昇がみられなかったため、三十三年の小学校令の改正では、ついに尋常小学校の授業料の廃止が行われた。これによって、後述のとおり就学率は急速に上昇していく。

 だが、就学率の上昇はすなわち、児童数の増加であって、学校維持の立場からすると、収入はないかわりに教室施設の拡充が急務となった。

 これに対し、国や県からの補助金が交付されるようになるが、校舎の新築、増築、さらに施設の充実など、町村としても支出が増大したため、新たに反別税など特別税の新設を行う町村がふえた。また、明治三十年代(とくに日露戦争の開戦を契機として)に地方改良運動が勃興し市町村の財政力の充実が叫ばれた。教育界でも学校基本財産の蓄積が必要とされたが、市域でも三十六年大相模小学校が二万円を目標に毎月村費より二五円ずつ積みたてることを決めた。以後市域の町村でもこうした事業が行われ、越ヶ谷尋常小学校では、四十二年六月皇后陛下が大袋村の鴨場へ行啓された際の御下賜金を基礎にして始めている。このように尋常小学校の授業料の廃止は学校維持の面で大きな変化を与えた。

教育基本財産証書(越ヶ谷尋常小学校)