日露戦争後わが国の国家主義教育は一層すすんだが、教育に対する関心も高まった。就学率は後述するように、授業料が三十三年に廃止されると上昇し、さらに四ヵ年であった義務教育年限(三十三年の小学校令)の延長がさけばれた。そして四十年三月小学校令の改正が行われ、尋常小学校を六ヵ年とし、同時にこれを義務教育年限とすることになった。
ただし、延長した二年間についてもこの授業料は徴収しないと定められたので、就学率の低下はみられなかった。
しかし、学校を維持管理する町村は、一挙に児童が増加するため、その対策に苦慮した。例えば、桜井村では四十年度六七人、次年度には八〇人の児童が増加するため教室八〇坪の増築が必要であったが、この費用は二八〇〇円を要するという。そこで、四十一年一月、来学年に限りこれら町村が管理している組合立越ヶ谷高等小学校に、尋常小学校五年生を委託したいと県に申請しようとしたが、南埼玉郡役所でこれを却下している。しかし、四十一年五月に越ヶ谷高等小学校が行なった館林つつじ園への遠足では「兼て仮収容せる五学年生徒も……」とあるので、実際には委託は黙認されたものと思われる。