明治十九年の小学校令が授業料を徴収することを定めたため、全国的に就学率は低下した。例えば、埼玉県でも十七、八年には五〇%前後までのびていた就学率が、十九年になると四一%と一挙に一〇%も急落した。市域についても大相模尋常小学校が二八%ときわめて低い数値であった。
こうした状況のうえに、さらに町村制の施行により当局者の理解の少ない町村では、教育環境が悪化する場合もあった。
明治二十二年十一月、町村制施行後に行なった県知事の管内巡視では、南埼玉郡第二高等小学校(組合立越ヶ谷高等小学校)および越ヶ谷尋常小学校に立寄り、視察したが、知事の質問に答えて首座訓導は、「小学校令改正ノ際ハ、生徒減シテ百名内外ニ及ビシガ、漸々増加シテ今ハ全ク旧ニ復セリ」と答えている。すなわち、高等小学校が一七〇人、尋常小学校が二〇六人の生徒数となっている。これだけみても一時は生徒が半分位に減じたことがうかがえる。しかし、旧に復したというこの数字も、単に喜んではいられない数値なのである。それは、翌二十三年の管内巡視録には、越ヶ谷高等小学校(組合立)および尋常小学校の就学率は四〇%であると記されているからである。
しかしながら、二十三年の小学校令改正が二十五年に埼玉県でも施行されると、授業料が半額程度になったこと、学務委員が復活したことなどあって就学率は上向いた。すなわち、二十七年には第95表のとおりとなり、市域の学校平均もようやく四四%にこぎつけた。しかし、県平均に比すれば、なお一〇%近い差があり、郡役所からはしばしば就学督促の注意を受ける有様であった。例えば、三十一年三月南埼玉郡役所は「本郡ニ於ケル就学児童数稍々増加之気勢ニ相向ヒタルモ学令児童ノ数ニ比シ頗ル寡少ナルヲ免レ難ク」とし、その原因として「校舎設備ノ未(いま)ダ整ハザルモノ又ハ学令児童就学督励ノ未ダ洽(あまね)カラザルモノアリ」としており、その対策としては「宜シク保護者ヲ誘掖シ就学ヲ督励スベキ」としている。
年次 | 19年 | 27年 | 43年 |
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摘要 | |||
% | % | % | |
共和学校(越ケ谷尋常小学校) | ― | 55 | 99.3 |
(大沢尋常小学校) | ― | ― | 94.2 |
出羽尋常小学校 | ― | 57 | 99.8 |
荻島 〃 | ― | 44 | 96.9 |
増林 〃 | ― | 44 | 97.4 |
大相模 〃 | 28 | 45 | 99.3 |
大袋 〃 | ― | 35 | 97.6 |
新方 〃 | ― | 31 | 99.5 |
蒲生 〃 | ― | 38 | 90.3 |
桜井 〃 | ― | 32 | 99.7 |
川柳 〃 | ― | 59 | 98.1 |
市域平均 | ― | 44 | 97 |
県平均 | 41 | 53 | 98 |
43年は学校というよりも村を単位としている.
従って越ケ谷高等小学校については不明である.
ところが、三十三年八月に小学校令が改正されて、尋常小学校の授業料が廃止されると急速に就学率が上昇した。この現象は、単に法令改正のみではなく、日清戦争後の社会的経済的背景が考慮されなければならないが、三十四年には大相模尋常小学校が九四%、三十五年には桜井尋常小学校が九八%、蒲生尋常小学校が九〇%と驚異的な就学率を示していた。
こうして、四十年の小学校令改正によって尋常小学校が六ヵ年となった義務教育の延長も、もはや就学率に影響を与えることはなかった。第95表にみるように四十三年の市域の学校平均も九七%となり、県平均にあと一歩のところまでになった。