教育の内容

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国家主義教育をめざした明治十九年の小学校令は、前にも述べたとおり、教科内容等の重要な事項については、国が管理するものとされ、以後ほぼこの方針で貫かれた。特に二十四年に国が小学校教則大綱という小学校教育課程の基本体制を確立して以後、埼玉県もほぼこの大綱に準拠した。

 教科目も尋常小学校についてみると当初は修身・読書・作文・習字・算術・体操の六科目であったが図画と唱歌をこれに加えることもできた。そして、修身の時間は従来の四分の一の一時間三十分となり、代りに体操ならびに唱歌に六時間もあてている。ところが二十五年には修身・読書・作文・習字・算術・体操の六科目に、日本地理・日本歴史・図画・唱歌、手工、裁縫(女)を加えることができると改められた。これは教育勅語渙発以後であり、その影響がみられて修身が倍の三時間となった。さらに三十三年には、教科目は整理され修身・国語・算術・体操とし、土地の状況によって図画・唱歌・手工・裁縫(女)を加えることができた。ここで始めて国語という科目が登場した。

 当時の市域の状況をみると、三十五年、蒲生尋常小学校では、唱歌を加設し、大袋尋常高等小学校の尋常科では唱歌と裁縫の二科目を加設している。また大相模尋常小学校では三十八年に唱歌および毛筆画の二科目、さらに四十一年四月裁縫と手工の二科目がそれぞれ加設を許可されたが、裁縫科の女教員がみつからず一ヵ月は授業ができなかったとある。

 なお、四十三年の南埼玉郡学事一覧によると、このほか、新方尋常高等小学校の尋常科に図画、高等科に農業、増林尋常小学校に図画、出羽尋常小学校に図画と手工、川柳尋常高等小学校の尋常科に図画、高等科に農業、越ヶ谷小学校に図画と手工、越ヶ谷高等小学校に農業と手工がそれぞれ加設されていたことがわかる。