教科書の国定

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教科書については、明治十九年の小学校令で検定制度が取り入れられ、教育内容の統制がはかられたが、採択は府県ごとに行われた。しかし、この採択にあたって不明朗なうわさがとび、一方では教育勅語の渙発以後修身教科書をはじめその他の教科書まで国定にしようとする動きがはげしくなった。こうした背景のもとに三十七年から国定教科書が採用されるようになった。

 また、これらの教科書を用いて教える教授法も、二十年代にはドイツのヘルバルト学派の五段階教授法(注意・観察・比較・統合・応用)を日本的にアレンジして取り入れたり、四十年代には自学主義教育の思潮が盛んとなり、埼玉県の教育界もその影響大なるものがあった。

 こうしたなかで、市域の大相模尋常小学校では、地方改良運動の影響もあったのだろうが、五・六年生の全児童に家庭一坪農業を課しているのが注目される。これは、アメリカのマサチューセッツ州視学スティブンソンがスミス農学校で明治四十一年(一九〇八)に試みたものがわが国に伝えられたものである。

当時の教科書