明治十六年三月、三度目の「埼玉新聞」が発行されるまでの県下新聞の変遷については前章で述べたとおりである。この埼玉新聞は月一〇回の発行で日刊にまで発展させようとしたが、わずか二ヵ月の短命でその年の五月に休刊となった。その後しばらくの間県下には郷土新聞が絶えていたが、同十九年十月、浦和町の嶽東社から「五県新聞」が発刊された。同紙は埼玉・千葉・茨城・栃木・群馬五県の時事報道を中心とする旬刊紙で、同二十年四月ごろまで続いたらしい。
本県で日刊紙のさきがけとなったのは、同二十三年十二月に創刊された「武蔵新聞」であった。国会の開設を迎えて政党の活動も活発になり、新聞界もその影響を受けて全国では大小一三八紙にのぼる日刊紙が発行されていた。このような情勢下で「百万の人口を有する我県下に一新聞なしとは残念」だとの意見が出て、時の小松原英太郎知事の後援で浦和町に武蔵新聞社が設立された。初めての日刊紙だけに期待も大きかったが、半年と続かないで廃刊となってしまった。
「武蔵新聞」につぐ日刊紙は、その一〇年後の三十二年五月に復刊した三度目の「埼玉新報」である。埼玉新報の復刊については次項に譲るが、大正三年まで続刊し、県下唯一の日刊紙であった。
その他、現在東京大学の明治新聞雑誌文庫と国立国会図書館に残っている新聞や、武蔵野史談(昭和二十七年)に掲載されている「埼玉県の新聞雑誌文化年表」によれば、明治中期から末期にかけて県下には次のような新聞が発行されている。
埼玉新報(第二回目、二十五年十月創刊 浦和町埼玉平民社 旬刊 時事報道時論 同年十一月第五号終刊)
埼玉民報(二十五年十二月創刊 埼玉新報改題 浦和町埼玉平民社 旬刊 時事報道時論)
新埼玉(二十六年一月創刊 熊谷町民声社 旬刊 論説文苑 二十七年十二月第三四号まで)
埼玉時事(三十一年十二月創刊 浦和町埼玉新聞社 旬刊 時事報道 三十三年八月第五四号まで)
八州日報(三十二年六月 二十八年六月創刊の雑誌八州改題 浦和町刀水社 週刊 関八州の時事報道 三十四年十一月第六二七号まで)
羽生商工新報→東武商工新報→東武新報→武総新報→関東新報(三十四年十一月創刊後、上記のとおり改題、関東新報は昭和初年まで続く、本社はいずれも羽生町で社名もそれぞれ新聞名のとおり改称されたが、発行人は終始山本忠次であった。最初は月刊であったが、月二回→旬刊→週刊となり、最後は再び月刊となる。時事報道や経済記事が主で、一時は羽生→東武→武総→関東へと記事も販路も拡大された)
武蔵商工新報(三十四年三月創刊 入間川町同社 月二回 商工記事 四十一年十月第一一一号まで)
埼玉日報(三十五年一月創刊 浦和町同社)
坂東日報(三十五年一月創刊 浦和町同社 日刊 埼玉群馬両県の時事報道 同年十月第二二〇号まで)
勧業新聞(四十二年一月創刊 浦和町同社 月二回)
右の諸新聞の内、越谷地方の記事をしばしば報道しているものには、当地出身の川上参三郎によって主宰された埼玉平民社の諸新聞はもちろんのこと、埼玉時事新聞、坂東日報、東武新報、武総新報、関東新報などがある。