埼玉新報の復刊

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荻島村出身の川上参三郎は、明治二十三年十二月浦和町に埼玉平民社を組織して月刊政治評論「埼玉平民雑誌」を創刊した。同社の社友には越谷地方の有力地主層や有識者の多くが参加した。また、当地方の各町村はその購読について越ヶ谷町の新聞取次店協立舎と特約を結ぶなど、当地方とは密接な関係を持続していた。同誌は二十五年七月第二十四号をもって終刊したが、同年十月からは旬刊紙の「埼玉新報」に切り替えられた。「埼玉新報」の名称は同十五年五月廃刊以来二度目であったが、同二十五年十一月五日にはわずか第五号で再び終刊せざるを得なくなり、翌月からは旬刊紙の「埼玉民報」、さらに翌二十六年の一月からは旬刊紙の「新埼玉」、そして同年九月からは月刊雑誌の「平民雑誌」とめまぐるしく改題をくりかえした。ただし発行所は終始埼玉平民社であった。「平民雑誌」がいつまで続いたかはわからないが、二十七年二月の第五号までは残っている。

 その後、同三十二年五月十一日、川上参三郎は浦和町に埼玉新報社を設立して、三度目の「埼玉新報」を復刊した。同紙は創刊当初は毎月一・六の日、すなわち月六回の発行で、最初はタブロイド判四頁立てであったが、翌年には六頁立てに変更している。代価は一枚二銭五厘、一ヵ月一二銭であった。いつから日刊紙になったかは正確にはわからないが、三十四年七月二十三日付のものがあることから、この頃にはすでに日刊紙となっていたことがわかる。日刊紙になるとともに七段組大型四頁立てとなり、代価も一枚一銭五厘、一ヵ月二五銭となったようである。

埼玉新報

 創刊当初の記事は、社説、県報、小説、雑報、文苑、寄書、広告からなっており、逐時県内各地に支社もおかれ、広く県内の雑報=ニュース、講談、詩歌俳諧など文芸欄も強化していった。とくに越谷地域は川上参三郎の出身地に加えて、大塚善太郎が記者となって健筆をふるったり、支社もおかれて毎号きめこまかい記事が報道されたので、購読者も相当多かったと思われる。

 社長の川上参三郎が政友会に属していた関係上、当初は政友会系の色彩が強かったが、記事の上ではつとめて中立の立場を取ろうと努力している跡がうかがえる。すなわち、三十九年一月二十一日の紙面では、「御猟場問題ノ真相」と題して、宮内省に対立して国民の立場に依拠した堂々たる論陣を張っていることなど、権力に屈しない同紙の態度がにじみ出ている(越谷市史(五)六六六頁)。また、四十二年から始まる新方領耕地整理問題は当地を政友会、憲政本党の政争の渦に巻きこんだが、同紙はこれに巻きこまれず、終始耕地整理の効用面からその推進に努力するなど、必ずしも政友会の立場に立って論陣は張ってはいない。

 同紙は大正三年まで続き、翌四年からは浦和町の埼玉新聞社に組織替えし、四度目の「埼玉新聞」に継続された。その埼玉新聞を見ると本社の所在地も、創刊日も埼玉新報と同じで、発行号数も明治三十二年五月以来の埼玉新報の通し号数を継承している。