御猟場の設定

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越谷地域は明治十六年江戸川筋御猟場に指定された。御猟場とは、皇室が外国の貴賓などを接待するための鳥類の遊猟地で、西欧の王室でも設置しており、その管理は宮内省主猟局が専掌した。ここ江戸川筋御猟場は、江戸時代には将軍家御鷹場と定められていた地で、鳥類の繁殖地としては最適の場所であった。明治十一年六月、時の内務卿伊藤博文は、皇室の遊猟場を埼玉県内適宜の地に設定すべく、県知事にその候補地選定を依頼してきた。埼玉県では同十六年五月、東は江戸川から西は陸羽道(祀在の四号国道)までの北足立・南埼玉・北葛飾の三郡下の町村、その延長約一〇里、幅約六里、面積約三万町歩を宮内省と協議して江戸川筋御猟場と定めた。翌十七年六月陸羽道をもって限れる区域を拡張し、鳩ヶ谷町より幸手宿に至る日光御成道に改められた。御猟場区域は前述のとおり三郡下の四四ヵ村(明治二十二年町村制施行による合併町村)にわたり、これを第一区、第二区に区分した。その他千葉県内に第三区の地がおかれた。第一区は越ヶ谷宿以東元荒川・逆川を経、松伏村に至り、それより野田に達する道をもって区分された。そしてこの第一区がなかでも最適地であった。

 御猟場区域内に指定された地は鳥猟が禁止されたため、鳥類が繁殖し、農作物をついばむために農民の被害は甚大なものがあった。また、区域内では毎年十月一日から翌年四月三十日までの猟期内は、村祭や祈年祭等の際、煙火打ちあげなどが禁止されたので、生活上不便の点も多かった。宮内省では土地の名望家を名誉職の監守人に選任するなど巧妙な懐柔策をもってこれに対処した。

 そして、明治二十四年には農民に対する鳥害の損害賠償の意味で、一五ヵ年間の契約で宅地を除き田畑一反当り金五厘の手当金を土地所有者に下付することになった。この手当金は蒲生村では補償反別約三九〇町歩で総額一九円四九銭二厘であった。ただし区域内の町村ではこの手当金を個々の地主に還元することなく、蒲生村ではこれを村の基本財産に寄付して積立て、桜井村では尋常小学校建築資金に充当しているので、農民の実質的損害は依然補償されなかったわけである。これらの条件の受諾は県知事や郡長らの説得に応じてなされた。しかし、御猟場に指定された町村には種々の鳥類が群集し、田畑の収穫が激減するなど被害が続出した。とくに小作人や貧困者からは再三にわたって御猟場解除願が提出されていたが、同三十年代になると被害が激増したので、地主たちも小作人懐柔の立場から遂に三十二年には市域内の各村の地主惣代連署をもって御猟場区域解除願を提出するに至った。