害鳥の駆除

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明治三十九年が期限更新期に当っていたが、その更新期を目前に控えた三十八年には、市域内の町村長から宮内大臣に対し、鳥害駆除方法について雀の自由捕獲許可と農作物に有害な鳥類の捕獲励行、および埼玉県令の空砲・威銃取締規則の緩和が請願された。ところが、一五ヵ年の満期に達した三十九年に、宮内省は手当金を反当り金一銭に倍増して、再度御猟場継続を納得させるよう県知事に指令した。地主たちはいずれも御猟場の被害が甚大なので、内心は全面解除を希望していたが、こと皇室のこととてその取扱いに苦慮していた。このような中で、全面的に御猟場解除を主張する人びとの陳情書は、鳥害の具体的状況に触れ、雁(がん)は立稲・乾稲および麦芽を荒し、雉子(きじ)は麦・豆・蕎麦を、鳩は豆類および蜀黍を、鷭(ばん)・鷺(さぎ)は早稲田を踏み乱し、ついばみ荒すなど指摘しており、もし御猟場を継続するのなら関係土地に対し免租に相当する手当金を下付すべきであると結んでいる。また、増額条件派に立つ人びとの陳情書では、手当金は鳥害に対応する額でなければと要求し、その額は反当り金一〇銭が相当と見積っている。

 このような情勢下において、埼玉新報は、明治三十九年一月二十一日の紙面で、「御猟場問題ノ真相」と題して、地域住民の立場に依拠した堂々たる論陣を張っている。この論説は、当時の天皇制絶対主義下において、まことに注目すべきもので、御猟場の維持管理はあくまでも宮内省行政そのものであり、御猟場問題を云々することは決して皇室に対する不敬には当らないと主張している。とくに御猟場手当金が僅少であることは、零細農民ことに小作人にとっては大打撃で、このことから小作争論が拡大し、国家・社会のためにも芳(かんば)しからざる問題を醸成するものであり、地主は御猟場継続に反対なら請書(契約書)を提出しなければよいし、継続を受諾するとしても鳥害の駆除方法と、被害の補償は堂々と要求すべきであると主張している。

 地元側の増額要求が意外に強かったので、宮内省としても御猟場を継続するためには、ある程度の譲歩は已むを得ないと認め、手当金の算出基礎は民有地の地租の百分の七・五の割合(一反当り六銭九厘)に増額した。かくて、三十九年には向う一五ヵ年間の継続を更新したが、その時の市域内各町村の手当金は第98表のとおりである。

第98表 明治39年御猟場町村手当金
町村名手当金
円余
大相模村425
増林村425
蒲生村241
荻島村389
新方村285
桜井村303
大袋村361
大沢町115
越ヶ谷町140
出羽村399

 その後も区域内の町村長を初め地主たちは御猟場の解放を訴え、あるいは害鳥の自由捕獲を訴える運動を展開したが、相手が宮内省ではその運動にも限界があった。しかし度重なる農民の訴願により宮内省は、大正三年五月には、先の明治三十九年の御猟場内訓を廃止し、新たに御猟場内則を定めた。だが、この内則でも、

 一、駆除する有害鳥は雀に限り、猟具は目抜五分以下の霞網とす。駆除期間は五月一日より十月三十日までとする。

 一、害鳥駆除の実施に当っては、江戸川筋御猟場鳥類保護嘱託員の立会をうけ、その指揮監督の下に行う。

 一、日の出前と日没後の駆除はできない。

 一、駆除の従事者はその土地の農業者で、一町村一五名以内とする。

 一、町村長は駆除の従事者をそのつど所轄警察署に届け出で、駆除証の下付を申請する。

など煩雑な手続きやきびしい制約が付されていた。

 ついで大正十二年四月、御猟場内則の一部変更が示された。これには駆除すべき害鳥は、雀のほかに金翅雀と鳩が認められている。ただし白子鳩(しらこばと)は除外された。また、駆除の期間が示されていないところから、年間を通じて駆除に従事することができるようになったと思われる。このほか町村長は、駆除に従事する者を毎年十二月十日までに警察署へ届け駆除証の交付をうけることにするなど幾分手続きの緩和がはかられた。なお、これに先立つ大正十年の更新期には、各町村では手当金を一反当り金三五銭に引上げることを要求したが、金一五銭にとどまった。