猟区の設定

387~389 / 1164ページ

大正十三年一月、御猟場区域の解除をうけた町村は、この解除地域を猟区に指定し、入猟料を徴して一般に解放することにした。入猟料の徴収理由に関しては、大正十二年十二月迄御猟場区域であったため、鳥類の繁殖が夥しく、低廉な承認料では狩猟者が殺到して混雑する恐れがある。しかも御猟場に近接する地域なので、入猟者を制限し御猟場に及ぼす影響を少なくするとともに、かつ鳥類の保護蕃殖方法を講ぜんため、制限外の承認料を徴収したいと農商務大臣に申請している。この猟区の設定は、越谷市域では、全域解除になった川柳村と、一部解除になった大相模村、出羽村、蒲生村の四ヵ村が含まれていた。

 ただし、この狩猟に関しては、多くの条件が付されたが、これを御猟場解除各村の提出した「猟区設定認可願」によってみると、(1)猟区存続期間は認可の日より向う二〇ヵ年とする。(2)入猟料は一人一日金五円、このほか一日一人につき金二円五〇銭の案内料を徴収する。(3)入猟期日は十一月一日より翌年三月末日までとする。この間大相模村は第二と第三の日曜日が入猟日で、入猟者の定員は六名、川柳村は毎日曜日定員七名、出羽村は第一と第三を除いた日曜日定員五名、蒲生村は第二を除いた日曜日定員は五名とする。(4)猟具は十番以上の大口径銃ならびに五連発銃を除く猟銃、笛猟は禁止する。(5)猟犬は一人一疋とする。(6)捕獲数は一人につき雌雉を除き、雉は五羽、雁は三羽以内とする、などの制約が付されていた。

 同年十月、農商務大臣の認可をうけた各町村は、一斉に狩猟の解禁を開始したが、猟区内の鳥類棲息状況を、「雉子・雁・鴨・鷭・鳩・鴫(しぎ)ノ類デ、コトニ十月下旬ヨリハ雁・小鴨・真鴨等群ヲ為シテ飛来、好猟者ノ垂涎措(お)ク能ハザル所ナリ」と宣伝に努める村もあった。

 これに対し入猟申込者は殺到したので、各村では抽籖によって入猟者を定めた。例えば大正十三年度大相模村の場合をみると、許可人員四五人のところ、実に三九二三人の入猟申込があった。これら入猟申込者は主に東京市内や東京府内の者が大半を占めていた。そして同年度の猟区収入と鳥類等捕獲成績は第101表、第102表に示すごとくで、現在ではとても考えられないぐらいの雁や雉子・鴫・鶉(うずら)などがいたことが知れる。

第101表 大正13年度猟区収入等一覧
村名 開猟度数 入猟申込数 許可人員 収入
大相模村 8 3,923 44 350
川柳村 13 1,245 72 541
出羽村 10 689 40 312
蒲生村 17 1,147 76 554
第102表 大正13年度猟区鳥類等捕獲成績
村名 五位鷺 その他 合計
大相模村 1 72 28 70 4 3 409 1 6 595
川柳村 1,284 91 71 72 34 34 106 11 1,703
出羽村 63 8 20 6 7 415 6 3 528
蒲生村 61 79 25 48 12 1,057 1,282

 しかし、猟区設定による鳥類の乱獲により、鳥類は数年を経ずに激減した。このため各町村は猟区を南埼玉郡と北葛飾郡の二区に分けて隔年ごとの休猟を実施したり、猟区の収入を巣箱の設置や食餌の給与、あるいは高麗雉の購入など鳥類の蕃殖費に充当したり、さらには鳥獣捕獲禁止区域を拡張したりした。だが一度減った鳥類は容易に元には戻らなかったようであり、これに伴い入猟申込者の数も激減した。例えば蒲生村昭和四年度の入猟申込者や捕獲鳥類の成績をみると、開猟日数一一日に対し、申込者は二五名、しかも実際の入猟者は二二名に留まっている。その獲物の総数も、鴨が一羽、鴫が七羽、鳩が九〇羽、その他が三羽、計一〇一羽に過ぎなかった。

 さらに同九年度は、開猟日数一二日に対し、入猟者はわずかに五名、獲物も雁一羽、鳩四九羽、計五〇羽であった。しかも入猟料や案内料の収入が金三三円に対し、書記の手当や損害補償費などの支出が二九円六九銭で、猟区経営もけっして利益のあがるものではなくなっていた。だが、こうした鳥類棲息状態の悪化は、蒲生村の場合、自動車交通のようやく激しくなった日光街道の沿村にあたっていたためもあったろう。例えば日光街道から多少離れて位置する大相模村や出羽村の同十一年度の狩猟成績をみると、大相模村の入猟者は四五名、雁一一羽、鴨三六羽、雉四九羽、鳩四二〇羽、鴫一四羽、鷭一羽、計五三一羽、出羽村の入猟者は一八名、鴨一一羽、雉一五羽、鳩一〇七羽、くいな一五羽、兎一疋の成績をあげていた。これに対し同年度の蒲生村は入猟者は二名、鴨一羽、鳩一一羽であった。