埼玉鴨場の設置

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埼玉鴨場は、大袋村大字大林の元荒川が円曲する堤塘の地点に所在し、宮内省主猟局が直轄し、皇族・貴賓・政府高官らが各国大公使や貴賓等を接伴して鴨猟を催す場所である。明治四十年に起工、翌四十一年十二月に竣功した。鴨場の周囲は約一〇町歩で、構成には二重、三重の築堤をめぐらし、堤上には高く竹笹が繁茂し、中央に鴨池を造って四時水を湛(たた)え、冬季に入ると四、五万羽の真鴨や小鴨がシベリア方面から飛来して、ここに棲息游泳し翌年の春には再び北方へ帰って行く。

埼玉鴨場正門

 鴨猟は、訓練した「おとり」の家鴨を使い、元溜と呼ばれる鴨池に放鳥する。ここにおりたった鴨を板木を打って、溝に家鴨とともに呼び寄せ口を閉ざして鴨が飛び立つところを「さで網」ですくいとる独特の手法で行う。池の東方に事務室、貴賓室等の建造物があって、前面は青芝の生える広庭で元荒川を望み、閑雅幽静の境地をなしている。

 この地は江戸川筋御猟場の一角で、先に述べたとおり鳥類が繁茂し、地形上からも鴨場設置の最適地と目せられ、明治三十六年ごろから所要地買上げの議が起った。同大字は耕地が狭隘のため農民は一斉に買上げの取りやめ方を運動したが効なく、また高価の買上げを要望したが、結局は田畑原野とも一反平均一〇〇円の価格で買収されたいきさつがあった。したがって大袋村では御猟場更新期の際には、他村より犠牲が大きいことを理由にして、御猟場手当金の増額を要求したが、昭和四年度から埼玉鴨場の地元として金五円が別に下賜された。これが、同十三年度には金一三円に増額された。

 当鴨場には新設なった翌年の明治四十二年二月二十八日に、皇族としては、初めて皇太子(大正天皇)の行啓があり、同年六月十七日には皇后(照憲皇太后)の行啓があるなど、以後皇族の来臨がしばしばあり、また皇室の接待による各国外交使臣の鴨猟も行われた。